【人生最期の食事を求めて】大衆性とモダニズムを兼ね備えた巨大餃子店の出現。
2024年9月21日(土)
餃子屋 弐ノ弐 渡辺通店(福岡県福岡市中央区)
唐突に雨が降ったかと思うと、唐突に止む。
かと思うと傘が役立たないほどの土砂降りになる。
9月下旬を迎えるというのに、まるで梅雨のようだ。
夕刻の頃合いになっても蒸し暑さがいっそう増し、日常生活では生じない部位にまで発汗し、肌の節々はベタつく。
そんな強烈な暑さと深いな湿度が街中に沈殿し続けていた。
天神駅を抜け、薬院新川に沿うか細い脇道を通って南天神と呼ばれるエリアに入った。
都心の中の住宅街にはマンションや雑居ビルが密集していて、蒸し暑さが建物の密度の濃さを助長している感がある。
路地裏のそこかしこには小洒落た装いの店が点在している。
かつては都心の中の住宅エリアも、おそらく街の仕掛け人のような人物がプロデュースし、コンセプチャルな店を次々とオープンさせ、ソーシャルメディアで話題性を喚起し、その影響から若年層の客が集い始め、マスメディアが取り上げて新たな客層の争奪を企む、というのも近年の飲食店マーケティングの王道のひとつだ。
住み慣れた居住者にとっては迷惑かもしれないが、街の活性化というものはいつの世もそういうものである。
新しい文化、新しい人々の流入を許してこそ新たな発展が生まれることは許容しなければならないのだろう。
旅の歓びのひとつは、計画性の中の無計画性にある。
雨が降ったら雨のせいにして雨宿りし、雨が止んだらまた見知らぬ街角を探し求める、というのも小さな贅沢なのだ。
今にも野良猫が悠然と歩く姿が似合う路地裏を抜けると、再び渡辺通に出た。
そこに真新しいモダニズムを感じさせる建物が突如として出現した。
私の小さな好奇心が刺激され、思わず敷地に入った。
建物の外貌からは何の店から不明確だった。
ロゴマークには“GYOZAYA”とある。
が、建物と餃子とのミスマッチは著しく、だからこそ私の足は店内へと導かれていった。
店内も簡素な印象ながら、壁にはモダンアート風の絵画が掲げられ、一見すると餃子屋には見えないのだが、その印象とは裏腹に大衆的な餃子屋とも言うべき騒がしい客たちで占めていた。
奥行きのある店内のさらに奥のテーブル席に案内された。
学生、または若い社会人風の若者たちもいれば、いわゆる女子会と呼ばれるような女性たちもいれば、東アジアの旅行客もいる、とふうに外観とは裏腹のアジア的雑踏が解放感のある天井にまで谺している。
外の蒸し暑さからのたまさかの回避、そうしてこの店の雰囲気から瓶ビール(580円)を模索した。
もちろん「焼き餃子」を注文しようとするとハッピーアワーに該当し一皿125円という低価格ぶりに驚きを隠すことができなかった。ついでに「青菜の強火炒め」(460円)、「ニラ玉」(380円)の注文もタップした。
食事を待つ間にも、他の客の皆が皆ハッピーアワーの焼き餃子を注文しているようで、周囲のテーブルに次々と置かれていった。
やがて私のテーブルにも焼き餃子が置かれた。
日本のご当地餃子といえば、栃木県の宇都宮餃子を筆頭に、静岡県浜松市、福島県福島市、三重県津市、そして福岡県もその名を連ねよう。
他の餃子と比べ、福岡のそれは“一口餃子”と呼ばれるほど小粒で薄皮であることが特徴である。
目の前にあるのは、まさにその典型としての一口餃子だ。
柚子胡椒をつけるのが私の好みのなのだが、この安さのせいか標準装備というわけではなかった。
雑踏に耳を傾けながら食する青菜、そして一口餃子はビールのアテとしては実に絶妙だ。
ニラ玉が追随してきた。
私が想像していたそれとは異なり、ふっくらとした玉子焼きではなく、しっかりと円盤型に成形された玉子の中にニラが無造作に散りばめられていた。
それぞれのメニューは、別段特筆すべきものはない。
ところが、モダンな建物と九州独特のイントネーションとの違和感の趣が味わい深く、しかも季節外れの蒸し暑さが醸す活気と熱気は他に類はないのではなかろうか?
広びとした店内に広がるテーブル席も、気がつけばほぼ満席になりつつあった。
モダンな外観、客の大衆性、ハッピーアワーというリーズナブルな営業戦略、そしてこのキャパシティ。
それでも席はしっかりと埋まってゆく。
それば立地メリットもあるのだろうか?
私はどこか不思議な違和感と驚嘆を覚えてならなかった。
そんな感情を振り払うように会計を済ませることにした。
時刻は18時を過ぎていた。
薄暗い夜の到来とともに、私は足は再び天神南エリアへと向かうのだった。……
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