【人生最期の食事を求めて】獰猛な炎天下で挑むワンタンスープの充足。
2024年7月31日(水)
ワンタンスープ専門店くぬぎ屋(神奈川県横浜市中区)
“行雲流水”という禅語がある。
雲は形を変え続けながら移り変わり、水は止まることを知らずに流れ続けるように、私たちの人生も同様で、常に変化して予想もつかない方向へと進むことを意味する。
街もまた変化し続ける。
久々に訪れた伊勢佐木町を貫くイセザキ・モールには幾許かの面影はどことなく残っているものの、35度に迫る炎天下のせいか人の陰は少なかった。
その細く長く伸びた商店街を歩いていると、今ではメジャーとなったあの男性デュオの路上ライブが埃を被った記憶の片隅から蘇ってくる。
夜の帳が降りるとともに彼らが歌い始めると、「うるせえ!」と酔っ払いの男性に怒声を吐かれ、はたまた水を掛けられていた記憶が靄に包まれた記憶が蘇った。
が、メジャーデビューが決まった際には、このショッピングモールを夥しいファンによって埋め尽くされたという伝説も残っているほどだ。
それもこれも、すべては行雲流水である。
11時を回ろうとしていた。
朝から強い日差しが反射する鎌倉街道に数多の車が交錯して、むせ返る暑さを助長していた。
他方、歩道には日陰で休む老人は見受けられるものの、この暑気にうんざりしているせいか歩く人の姿は少ない。
そこにワンタンスープ専門店の看板が目に留まった。
私は一瞬ためらいを覚えた。
この暑気の只中で、ワンタンスープの熱量は私にどんな影響をもたらすのだろう?
むしろ私はこの獰猛な熱帯の中で、それと溶け合うようにワンタンスープを食するとどうなるのだろう?
店の中に入ろうとすると、真新しい券売機が置かれていた。
しょうゆと塩の2種類のスープがある。
しかも冷たいスープもあるのは意外だったが、ともあれ私はこの獰猛な熱帯と融合することを決意した以上、紛うかたなくワンタンが10個入った「しょうゆワンタンスープ(並)」(1,070円)、そして「鶏そぼろ飯(並)」(380円)のボタンを押した。
ところが券売機は微動だにせず、発券される気配がない。
店内のスタッフにそれを告げると、どうやら紙詰まりらしい。
丁重に謝罪され、私は奥に長く続くカウンター席の入口付近に座った。
店内は外の暑熱と調理場の熱気に包まれているが、東南アジアだと思い込めばそれも苦ではない。
ラジオが流れていた。
昔よく聴いていたFM局のチャンネルで、そこからまさにメジャーとなったあの男性デュオが流れていた。
開催中のパリオリンピックの兼ね合いもあるのだろう。
まだ営業を開始して間もなくこの暑気も手伝って、客の姿はひとりしかいない。
しかも営業時間が深夜3時までとあることから、営業スタンスは酒を飲んだ締めとして位置づけているのだろう。
ワンタンスープということも勘案すれば、昼食のそれはどうにも物悲しさも醸す。
そこにデリバリーサービスのスタッフが入ってきた。
外出せずとも冷房の効いた室内で熱を帯びたワンタンスープを愉しむという昼食は、なるほど滋味深い。
先に鶏そぼろ飯の入った器が置かれた。
朴訥としたその様相には、どこか古き良き日本の芳しさともいうべきものが漂っている。
そこに醤油ワンタンスープが追随してきた。
そこはかとなく漂う湯気は、想像し難い放熱を宿しているに違いなかった。
チンゲンサイとネギの堆積と混淆の元で、白い岩窟のようなワンタンが横たわっていることを確認しながら、まずはスープを一口啜った。
当然凄まじい熱を帯びてはいるのが、実に絶妙な淡さで迎えて体内へと染み込んでいくようだ。
蓮華でワンタンを持ち上げると肉感に溢れ、一気に食べるとやはり強烈な熱を口腔に放ち、そして噛み砕くとそぼろ状態の肉の塊が随所に解け、砕け、散っていった。
ワンタンは確かに食べ物である。
だが、これほどまでに咀嚼を要するものであることを、私は初めて体感した。
鶏そぼろ飯は、その様相通り実に朴訥としている。
ワンタンスープを主役として引き立たせ、あくまでも脇役に徹する。
そんな静かな決意の表れのように感じられた。
ワンタンはいよいよ存在感を増して私に切迫してきた。
ワンタンを噛み砕き、スープを飲み、そして鶏そぼろ飯を頬張る。
この一連の動作、さらにこの食べ応えのあるワンタンスープ自体、単なるスープの中の具材のひとつとしてではなく、“ワンタン定食”としてひとつの独立した存在への昇華を果たしているとは言えないだろうか?
そこへ、ひとりの会社員らしき男性客が店に入ってきた。
私の並び席に座ると、
「ミックススープで」
と通い慣れた口ぶりでさりげなく言い放った。
ミックススープとは、しょうゆと塩のブレンドなのだろう。
私はすかさず脳内にメモを施しながらも、瞬く間にワンタンスープを平らげた。
それにしてもなんという満足感と自己効力感だろう。
そのおかげで汗もなんとも心地よい。
しかも店を後にすれば、再び獰猛な灼熱が無数の汗を滴らせることに違いないのだから。……
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