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【孤読、すなわち孤高の読書】二・二六事件と三島由紀夫
[そもそも二・二六事件とは何だったのか]
まもなく89回目の2月26日がやってくる。
1936年(昭和11年)2月の雪の朝。
帝都東京は凍りつくような静寂に包まれていた。
しかし、それは嵐の前の静けさであった。
やがて銃声が轟き、血が流れ、国家の未来をかけた決起が始まる。
二・二六事件——それは、日本の歴史における最後の行き過ぎた反乱であり、「昭和維新」を掲げた青年将校たちの悲劇的な叛乱であった。
彼らは信じていた。
腐敗した政治を一掃し、国家を真に天皇の御手のもとに取り戻すことが、軍人としての使命であると。
しかし、その純粋さは、容赦なき歴史の奔流に呑み込まれ、やがて「逆賊」として斬り捨てられることになる。
■背景ーー「昭和維新」の夢
当時の日本は、貧困と絶望に覆われていた。
世界恐慌の余波は深刻で、農村は飢え、都市は疲弊し、腐敗した政治家たちはそれを見て見ぬふりをするばかりだった。
この混沌の中、軍部の中にひとつの思想が生まれる。
「皇道派」と呼ばれる彼らは、天皇を中心とした国家の再生を夢見、既存の政治体制を打破しようと考えていた。
そして、彼らの行動を突き動かしていたもの、それは単なる権力欲ではない——それは、燃えさかるような「義の心」であった。
腐敗した政財界を粛清し、国家を浄化する。
軍部による直接政治を実現し、民衆の救済を果たす。
天皇親政のもと、真の「昭和維新」を成し遂げる。
彼らの理想は、あまりに純粋で、あまりに激烈だった。
■決起ーー雪の帝都に響く銃声
1936年(昭和11年)2月26日未明。
決意に満ちた青年将校たちは、約1,400名の兵を率い、東京の中枢へと進軍する。
冷たい雪が、彼らの純白の情熱を覆い隠すかのように降り積もっていた。
主な標的とその結末
岡田啓介首相(殺害されるはずが奇跡的に生還)
高橋是清大蔵大臣(寝室にて射殺)
斎藤実内大臣(血の海の中で絶命)
渡辺錠太郎教育総監(無残に倒れる)
帝都は彼らの手中に落ちた。
しかし、彼らが最も欲していたもの——天皇の賛同——それはついに得られなかった。
■鎮圧——天皇の怒り
青年将校たちは、天皇こそがこの革命の理解者であり、救済者であると信じていた。
だが、その思いは無惨にも打ち砕かれる。
昭和天皇は、彼らの行動を「逆賊の謀反」と断じ、直ちに討伐を命じた。
「朕自ら近衛師団を率いて討伐する!」
その一言が、彼らの運命を決定づけた。
もはや、逃げ場はない。
彼らは戦い、そして敗れ、やがて銃殺刑という形でその生涯を閉じることとなる。
[二・二六事件の影響]
二・二六事件は、単なる反乱ではなかった。
それは、時代に踏みにじられた純粋なる魂の叫びであった。
そして、その死は無駄ではなかった。
それは、ひとつの美しき失敗だった。
青年将校たちの理想は、時代の奔流の前に打ち砕かれた。だが、その死は、ひとつの問いを我々に残している。
国家とは何か。
忠誠とは何か。
そして、人間の生きる意味とは何か。
二・二六事件は、歴史の中で凍結したまま、しかし確かに、我々の前に問いかけ続けている。
この事件の後、日本はよりいっそう軍国主義へと傾斜していく。
青年将校たちの血は、やがて日中戦争、そして太平洋戦争へと繋がる流れを生み出す。
しかしそれ以上に、この事件が与えた影響は、ひとりの作家の心に深く刻まれていた。
三島由紀夫——彼はこの事件を、滅びの美学として受け止めた。
国家のために死ぬこと、それは「悲劇」ではなく、「美」であると。
彼の文学、そして彼自身の生き様の中に、この事件は深く沈殿していくことになる。
[『憂国』と『英霊の聲』の彼方にあるもの]
11歳の少年は、新聞の活字を通してこの事件を知った。
彼はやがてその将校たちの純粋なる死の形を、美の極致として讃えるようになる。やがて彼の文学の中に、そして彼自身の生の中に、この事件は沈殿し、結晶し、ついには炸裂するのである。
小説『憂国』——滅びの美学
ある夫婦がいた。
夫は武藤大尉。
妻は麗しき良妻である。
二・二六事件の夜、夫は命じられる——明朝、叛乱軍を討て。
彼は迷う。
彼らは仲間だった。
ならば、どちらにも与することはできぬ。
彼が選ぶべきは、ただひとつ。
美しく死ぬこと。
閨房に、白刃が閃く。
刃先は、彼の腹へ、妻の喉へと吸い込まれる。
血潮の匂いは、凛とした香気を放ち、死にゆく二人の眼には、至高の恍惚が宿る。
——かくして、憂国は果たされた。
この作品こそ、三島の美学の凝縮であった。
生きるとは、死を選ぶための前奏曲にすぎない。
ならばその死は、もっとも輝かしく、もっとも美しくあるべきだ。
「二・二六事件の将校たちの魂と共に死ぬこと」。
それは文学の夢想ではなく、彼にとっては現実の選択であった。
小説『英霊の聲』——戦後日本への鎮魂
戦後日本。
街にはネオンサインが瞬き、誰もが平和に酔っていた。
しかし、三島の耳には聞こえていた。
英霊たちの聲が……。
かつて、国家のために死んだ者たち。その魂は安らかならざるものとして、この国の空を彷徨っていた。
二・二六の将校たち、特攻隊の若者たち、あるいは名もなき兵士たち——彼らの聲が、戦後の虚無を震わせる。
「我らの死は、なんであったのか?」
この問いこそ、三島が戦後日本に投げつけた最後の刃であった。
彼の怒り、彼の悲哀は、この作品の中で頂点に達し、ついには行動へと変わる。
[そして、割腹へ]
1970年(昭和45年)11月25日。
彼は、自らの最後の舞台へと向かった。
防衛庁、市ヶ谷駐屯地。
「このままでは日本は滅ぶ!」
最後の言葉を叫び、彼は白刃を腹に突き立てた。
鮮血が迸る。
しかし、彼の心には、はっきりと見えていたはずである。
あの2月の雪の朝、青年将校たちが帝都の路上に斃れたその光景が。
[畢竟、三島にとって二・二六事件とは何だったのか?]
三島由紀夫にとって、二・二六事件とは、永遠に失われた「武士道」の幻影であり、滅びの美学の極致であった。
彼は幼少期よりこの事件に強く惹かれ、その純粋性と悲劇性に憑かれたように生涯をかけて思索し続けた。
そこには、単なる政治的反乱ではなく、己の信じる道のために命を投げ出すという日本的精神の極限があった。
彼にとって、二・二六事件の青年将校たちは、時代の「異端者」 でありながら、もっとも純粋な忠義の体現者 だった。
彼らの信じた「昭和維新」は実現しなかった。
むしろ、彼らの死後、日本はより合理的な軍国主義へと突き進み、彼らの「義の心」は歴史の闇に葬られた。
しかし、それこそが三島にとっての究極の美だった。
彼は『憂国』において、二・二六事件に自らを重ね、「死を選ぶことでしか貫けない美」 を描いた。
さらに『英霊の聲』では、彼らの魂が現代に問いかける「忠義とは何か」という問いを、現実と虚構を交錯させながら表現した。
そして、最後に三島自身が選んだ道——楯の会の決起と割腹自殺 は、まさに二・二六事件の青年将校たちへの「遅れてきた殉死」であった。
彼らが果たせなかった天皇への直訴と、彼らが求めた「死の純潔」を、三島は自らの血によって完遂しようとしたのだ。
つまり、二・二六事件は三島にとって、思想ではなく、美学であり運命であった。
それは、彼の文学の核心であり、彼の生の本質であり、そして彼の死の理由そのものではなかろうか?
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