見出し画像

【人生最期の食事を求めて】驚嘆すべきポーク生姜焼という山頂。

2024年6月22日(土)
人形町かねき亭(東京都中央区人形町)

谷中から千駄木、そして根津に通ずる路を久方ぶりに歩いた。
いわゆる“谷千根”と呼ばれるエリアである。

太平洋戦争の戦禍を免れたこのエリアは、夏目漱石、森鴎外、高村光太郎といった文人たちが一時期を過ごし、東京大学や東京芸術大学といった文化・芸術が香る、まさしく文教地区という名にふさわしいエリアでもある。
だからこそ、若い頃の私はその権威主義的、伝統的主義的な風潮への嫌悪感を拭えず、その落ち着き払った空気を放つ街を遠ざけていた。
それがどうであろう。

上野恩賜公園の鑑真像

あのホロコーストから生還したオーストリアの精神科医で心理学者のヴィクトール・フランクルは名著『夜と霧』の中で、“あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない”という一節を思い出した。

街の様相が変わっていようといまいと、私たちは人それぞれ独自で多様な経験とともに年齢を積み重ね、人生を全うする。
否、人生を全うしなければならない。
それを決めるのは他者ではなく自己であるのだ。

ヴィクトール・E・フランクル(1905〜1997)

昼の頂点を迎えるにつれて日差しが強くなった。
それでも私は苦もなく歩き続けた。
上野恩賜公園を横目に秋葉原を抜けて小伝馬町を過ぎ去り、人形町に辿り着いた。

江戸時代から続く下町風情と雑居ビルやマンションが同居するこの町も、新たなテナントビルが街に似つかわしくないネオンサインを発していた。
13時を過ぎていた。
異様な空腹に思わず足を止めた。
朝から水しか摂取していなかったのだ。
多くの人々が行き交う目抜き通りを避け、路地裏へと歩みを進めた。
人形町といえばすき焼きや天婦羅がすぐさま想起させるが、この人の多さは私を呆気なく回避させた。
ともあれ、代わりになる店となると思いつかなかった。

路地裏をしばらく歩くと、日陰になった白い壁に看板の存在を認めた。
それは、生姜焼の強い印象を残す写真だった。
店の入口横にある待合用の椅子には、年配のふたりの女性客が既に座って待っているようだ。
すると、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
女性スタッフは丁寧で快活な口調で、
「店内が満席のため今しばらく待ちください」
と言うとすぐさま、
「店の前は車が通るのでお気をつけください」
と付け足した。

人形町かねき亭

年配のふたりの女性客が店に入ると、食べ終えた客が次々と出てきた。
再び丁寧で快活な口調の女性スタッフが現れ、さほど待つことなく店内にカウンター席の隅に案内された。

メニュー表には6種のメニューが並んでいる。
外の看板にあったメニューこそこの店の代表を意味するのだろうと思い立ち、さらに途方もない空腹も手伝って、私は「ポーク生姜焼、マヨネーズあり、キャベツM、ライスはちょっと多め」(1,100円)をすぐさま選んだ。
L型カウンター席と背後のテーブル席には老若男女の客が占めている。
土曜日ということも手伝って、きっと遠方からの客もいるのだろう。

ポーク生姜焼、マヨネーズあり、キャベツM、ライスはちょっと多め(1,100円)

先にポーク生姜焼のプレートが運ばれ、続いてライス、そして味噌汁が追随してきた。
店先の看板の写真も印象的だったが、実像のそれはどこか絵画かオブジェのようだ。
例えるならば、イギリスを代表する現代芸術の巨匠デイヴィッド・ホックニーの作品と言えようか。
生い茂るキャベツの頂を肉片が覆い、そこから沸き立つ湯気が奇妙な威厳を醸し出しながらも、キュウリとトマトが一種モダンなアクセントカラーを添えた表現主義的作品に感じられた
追って私の並びの客の前にプレートが置かれた。
その男性客は無表情こそ装っていたものの、それは紛れもなくキャベツLであった。
アルプス山脈のマッターホルンさながら、キャベツの頂がキャベツMよりも鋭く尖っている。

私はキャベツLから目を逸らし、眼前のプレートに視線を注いだ。
攻略すべきはキャベツからだった。
心なしか甘味のある生姜風味のソースを携えたキャベツは、程よく水分を含みながらも噛み応えの良さは申し分ない。
キャベツを半分ほど食べ進めたところで、幾重にも積み重なる豚肉に箸を伸ばした。
拳大のそれは生姜とにんにく風味を装って、止めどもなくライスを催促した。
ソースと生姜とにんにく風味が渾然一体となって私に差し迫り、ライスが応酬する展開が続いた。
鮮度の高いキュウリとトマトで一息つき、再び豚肉の攻略に入った。
次は豚肉をライスに載せた趣向で次々と噛みつく。
キャベツの残滓さえもその趣向は適していて、私はとどまることなく踏破した。

私の中には空腹の余韻すらもない。
訪れたのは生姜とにんにく風味の余韻と満足、そしてやがて訪れるはずの歩き疲れた後の狂おしいまでの午睡の誘惑に違いなかった。……


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?