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【人生最期の食事を求めて】仙台牛タンという選択の迷走。(仙台牛タンを求めて編1)

2022年11月14日(月)
「たんや善治郎別館」(宮城県仙台市)

言うまでもなく牛たんは、仙台を代表する食の名物であることに間違いはない。
仙台駅前や国分町を中心に、名だたる牛タン焼専門店が群雄割拠しており、その様相は牛タン戦国時代のようなものかもしれない。

37歳にして初めての牛タン体験は、「利久」という有名店であった。
初の仙台出張で訪れ食した感動はここから始まった。
その後の度重なる仙台出張、さらに転勤によって過ごした約3年間で、私の食人生の中のひとつの感動体験としての記憶が刻まれている。

そもそも牛タンの歴史は諸説あるが、太平洋戦争集結直後の1948年(昭和23年)に「味太助」の初代店主が試行錯誤を繰り返して作り上げた牛タン焼きが発祥とされる。
そこから技の伝承が広がっていき、国分町周辺では現在でも「味太助」から暖簾分けした店が点在している。
さらに味の改良や牛タンの仕入れ方、厚さ、味付け手法等、店それぞれの創意工夫によって発展を止めることなく今に至る。

他方、困惑するのは店の選び方であろう。
店や情報伝達手段の発達によって、結局のところどの店を選んでよいのか分からなくなってしまうからだ。
となると、自分なりに情報を整理しておくことも大切である。
前出の発端となる「味太助本店」やチェーン展開によってその名が知れ渡る「利久」、多彩な牛タンメニューを繰り出す「閣」、某人気孤独グルメ系テレビ番組にも登場した「萃萃(スイスイ)」といったローカル店舗、新興勢力の「一仙」等枚挙に暇がない。

そして転勤を終え会社を退職し、もう仙台を訪れることはないだろう、と朧げながらに考えていたら、突如として仙台を訪問する機会が訪れるのも人生の不思議と言えようか。
この機会を逃すと、二度と堪能することなどできないかもしれない。
そんな寂寥に満ちた想いが仙台牛タンへと突き動かした。

風がないものの、夜ともになると厳かな冷気が足元から忍び寄ってきた。
11月の仙台でも侮れない寒さが突然訪れる。
私は幾分肩をすくめながら、仙台駅西口から五橋方面へと続く歩道を歩いた。
歩き進めると駅前の華々しい電飾が影を潜めるが、歩を進めると白熱灯が歩道一面を照らしてその存在感を強調していた。
それは「たんや善治郎」が「五橋横丁」という建物であった。
牛タンを筆頭に、中華料理、焼鳥、弁当屋などが店内で軒を連なる新しいスタイルの横丁である。
もちろん牛タンを目当ての入店であるが、店内のどの席に座ってもこの横丁内に揃うメニューを注文できるという点が特徴と言えよう。

五橋横丁
牛タン、中華、焼鳥等を一緒に楽しむことができる

長く細く伸びる店内で案内された席は、幸いにも牛タンを焼く炭火の前であった。
席に着くや否や、ビールを頼んでそれを待つ間、大きなメニューを凝視した。
何はともあれ「上撰極厚真中(しんちゅう)たん焼き」の単品三枚(3,190円)は必達である。
「玉子焼き」、さらに「牛丸ちょう串焼き」も外せない。
牛タンの素晴らしい点は、調理に時間を要しないことだ。
注文した肉が網におかれた。
その途端に突然の豪雨にでも見舞われたような音を放ち、一瞬の火柱を突き立てて独特の匂いをこれでもかと言わんばかりに主張した。
威勢の良く闊達な男性スタッフがすかさず皿を置くと、分厚い肉の塊が身を寄せ合って震えている。
牛タンの大トロとも言われる希少部位のそれは、外見では理解し難いほど柔らかく、噛めば噛むほどに肉汁の粒がまろやかにベールを解いて、味の秘匿を露にする。
思わず唸り声を上げたくなるほど、肉の断片は私の中で溶け、私とひとつになるのだ。
絶え間ない興奮を「玉子焼き」で冷まし、「牛丸ちょう串焼き」はジョッキを空した。

豊富なメニューが揃う
牛たんの到着を待ちながらまずはビールをしたためる
カウンターの目の前で焼かれる真中牛たん
上撰極厚真中(しんちゅう)たん焼き
玉子焼き
牛丸ちょう串焼き

再びビールを注文したのだが、すでに牛タンは数少ない。
ところが残り少ない牛タンもビールを吸い上げるように奪うのだ。
幾分冷静さを取り戻すために「定義の三角揚げ」を頼むことにした。
このメニューもまた仙台名物だが至って地味である。
が、地味だからこそ務めるべき役割を果たす。
その合間にも日本酒のメニューがちらついて離れなかった。
宮城は日本酒の宝庫でもある。
迷うことなく「墨廼江」だった。
純米の米ならではの風味を携えて、蛋白ながらも奥行きのある日本酒が再び「真中たん」を呼び覚ました。

炎上する三角揚げ
定義の三角揚げ
地酒のラインナップも充実

なんということだろう。
もはやひとりで愉悦に浸る分量でないほどに牛タンを求めてしまった。
酔い覚ましにハイボールを求めて内省を促したものの、そこには一点の曇りゆく後悔はない。それどころかどこか晴れ晴れしいまでの気分に酔った。

私はあるがままに今を生き、そうして最後かもしれぬ牛タンを思うがままに食べ尽くすまでなのだ…


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