【人生最期の食事を求めて】滋味深い鰻串の数々と多様性の社会への思慮。
2024年5月16日(木)
千松屋さとう(北海道札幌市中央区)
「うなぎの旬は、土用丑の日じゃないんだよね」
仙台市のとある鰻の蒲焼で有名な店に入った時、店の大将がつぶやいたエピソードである。
軽い衝撃とともに後に調べてみると、江戸時代の発明家である平賀源内が編み出したPR手法であることを知った。
その当時、夏場に売れない鰻を販売促進すべく、「本日、土用丑の日」という看板を出したことによって鰻屋が大繁盛し、その後競合店も次々と真似をして追随したことから定着したというのが、どうやら通説である。
269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌスに由来する記念日を、バレンタインデーとしてチョコレートを贈る習慣を定着させた菓子メーカーのマーケティング戦略と、つまりは同様の手法ということだ。
江戸時代からすでに販売促進術として巧みに使用され、現代ではステルスマーケティングという悪質な手法にまで拡張したことは、あらためて驚愕であると同時にそこまでして販売に固執することへの猜疑心さえ芽生えてしまう。
世の中ではキャンペーンやイベントが盛んだが、我々消費者はその裏側に潜む企業の狙いをしっかりと把握する必要があるのだ。
ともあれ、土用丑の日というまやかしに左右されることなく食する鰻をどのように堪能するべきだろうか?
蒲焼だけが鰻料理ではないのはもちろんだが、鰻を提供する店自体を求めることもまた難しい。
18時前だった。
大通とすすきのの中間に位置する狸小路商店街と言えば、もはやアジア系インバウンドの聖地的エリアとも言える。
マスメディアは、食事やらお土産やらにお金と落とす経済効果の側面ばかり取り上げているようだが、彼らが残してゆくゴミやタバコの吸い殻、路やベンチの占拠という諸問題を取り上げないのは何故だろう?
とりたてて私は保守主義者ではない。
むしろ昔から保守主義を嫌悪し今でも打倒の血が騒ぐほどだ。
改革開放というよりも急進的な革命すらも政治家に求めてしまうリベラリストとしては、インバウンドこそ未来の国民の一部と期待して移民受け入れ政策を断行してほしいと考えている者にとっては、その現状は不快であり落胆の光景なのだが。
しかしながら、8丁目まで足を伸ばすとその様相は一変し、インバウンドの姿は皆無でコロナ禍中から小洒落た店が増えつつある印象がある。
鰻を提供する店もその一部を構成していた。
鰻とはいえ、陳腐な伝統を装った雰囲気は一切ない。
喫煙可という点と1980年代のMTV世代には馴染み深いBGMは昭和風情の残滓が薫るが、店内は現代風の洒脱な空気を放っている。
スタッフの対応も機敏で返答も心地よい。
さらに、お通しの鯛の天ぷらは料理への期待をどことなく暗示しているように思えた。
「たんざく焼き」(460円)、「くりから焼き」(480円)、「ればー焼き」(250円)、「ひれ焼き(背びれ)」(300円)、「きも焼き」(380円)という一連の鰻串をまずは頼んだ。
注文した料理が一気呵成ではなく、一品一品訪れる。
それはこの店の配慮かどうかは定かならぬが、作りたての料理を適度な間を置いて一品一品差し出してくるその姿勢に感銘を受けながら、本日のお造りに目が止まった。
産地の明記は静岡産の鰻だけでなく、その他の魚も同様である。
「みかん鯛」(960円)と「縞あじ」(1,000円)が日本酒を催促するのだった。
この日の時点で痛風発作は収まってはいるものの、ビールも日本酒も悪であるのに、その料理の数々は私の自分自身への忠告を凌駕するほどの魅力を孕んでいるということか?
「鯨さえずり刺」(890円)と「地竹炭焼」(690円)は、もはや日本酒と足並みを揃え止めどなく体内を流れてゆく。
さらに「おつまみポテサラ」(500円)、「山うど天ぷら」(600円)、「九条葱玉子焼」(600円)まで行き着くと、久方ぶりの幸福感に包みこまれるようであった。
“世界三大幸福論”を書いたひとりであるフランスの哲学者アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)は、
「まず自分がほほえまなくて、誰がほほえむのか」と言い放った。
その箴言はまさに普遍の真理性を突いているが、会計を済ませてこの店を去る時のスタッフの暖かい微笑はまさにアランの箴言をなぞっているような気がしてならなかった。
移民政策を受け入れ多様化した未来を夢見る時、果たして彼らにはこの滋味深く奥行き深い鰻串や海鮮の味わいを理解し、同様の幸福感を供に共有することができるのだろうか?
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