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【人生最期の食事を求めて】さりげなく上質な札幌町中華の代表格。
2024年1月20日(土)
天坊(北海道札幌市中央区)
いわゆる「町中華」という用語が普及したのは、あるフリーライターによる“町中華探検隊”の活動が次第に浸透し、現在は市民権を得たと言える。
けだし町中華とは、円卓はなく広東料理や四川料理という高級中華系ジャンルに属さず、リーズナブルなメニューが揃う店と定義づけられるだろう。
ラーメン、餃子、チャーハン、麻婆豆腐等といった馴染み深いメニューが揃っているのがその特徴である。
そういう意味では、全国津々浦々に町中華は地域に根ざしながらその存在感を維持している。
とはいうものの、経営者の高齢化や後継者の継承不足という課題の表面化は否めない。
さらに、時代の変化や作り手の味覚の変化による味の劣化も表出し始めた現代において、私たちが町中華に託する未来展望は決して明るくはない。
そんなことをひとり寡黙に考えながら、私は外国人観光客が蠢く狸小路商店街を擦り抜けた。
いわゆる二条市場は、私の行く手を阻むようにいっそう混雑を極めていた。
その混雑を回避しながら昼食の選択をふと考えた。
この混雑からして海鮮系という選択は当然にしてない。
といってこの周辺で何があるだろうか?
私の脳裡に先程までよぎっていた未来展望。
『そうだ、天坊だ』という駄洒落にかこつけたひらめきに導かれて店に急いだ。
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14時前だった。
ともすればラストオーダーすら終えているかもしれない。
寸分の不安を抱きながら、暖簾のないシンプルな外観の中華料理店らしからぬ店に入っていった。
曇る眼鏡が視界を遮った。
「いらっしゃいませ。空いている席にどうぞ」
薄暗いながら満席近い店内に、弾むような曇りのない声音の女性スタッフの声が響いた。
霞む視界の目前に輪郭のぼやけた空席を見出すことができた。
すぐさまメニュー表を覗き込んだ。
右隣の男性客は見たところ定食を、左の隣の夫婦と思われる男女の客はラーメンを食べているようだ。
ここ数日の食生活を考えると、「肉ニラ卵定食」(1,050円)が誘惑を最も強く感じた。
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さっそく大将が背中を丸め、大きな中華鍋に油を注ぎ、ガスの熱を強めた。
中華鍋とガスコンロの激しい擦過音。
時折憤怒するように燃え上がる火焔。
土砂降りの雨のような料理音。
オープンカウンター越しに躍動する大将の調理姿は、前菜のようなものである。
他のオーダーが入ってもその寡黙と躍動は不変のようだ。
次々とマルチタスクをこなしながら、目前にそれは現れた。
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肉ニラ卵からは幾条もの湯煙が交わりながら昇っては消えてゆく。
そこに箸を入れ、思い思いに持ち上げると尚のこと行く手を遮るように湯煙が沸き立つ。
ニラと卵ともやしの混交を持ち上げて頬張ると、得も言われぬ食感がごはんを催促した。
豚肉と人参、そして木耳の混交は、また異なる歯ごたえをもたらすもそこに相通じるのは味付けの絶妙である。
『この絶妙は、未来に継承することは可能なのだろうか?』
時折スープの柔和な味わいを楽しみながらそう思った。
難解極まるドイツの哲学者イマヌエル・カントのコペルニクス的転回はないにしても、
前述したように時代と味の変化と進歩は不可逆的であり不可分の関係性にある。
が、それにしても人間には理想の味覚の限界はというものがあるのだろうか?
答えの出ない難題はさておき、完食は容易だった。
その時、目の前に突如として作りたてのチャーシューが私を牽制し誘惑するかのように置かれた。
糸に巻きつけられた肉感、表面の神々しいほどの照り。
まるで生贄が神聖化した一瞬のように思えて、会計を忘れてしまいそうになるほどに目を奪われた。
我に帰って薄暗い店内から外に出ると、午後の柔らかい日差しが雪に反射してやけに眩しく感じた。
その眩しさが私の思考を再び刺激して、カントの命題と味覚の限界についての解決のつきようのない命題に思い悩む羽目になるのだった。……
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