【人生最期の食事を求めて】地元名物の鮮度と旨味を愉しむ静岡の夕刻。
2024年7月13日(土)
ほうとく酒蔵(静岡県静岡市葵区)
束の間、静岡おでんと餃子を愉しんだ後に新静岡エリアに足を伸ばした。
降っては止む雨のせいで人々の手には傘が携わっている。
まさに梅雨らしい天候もまたこの街の個性のひとつを彩っているのかもしれない。
考えてみると世間は3連休であることに気づいた。
が、人が溢れ返っているわけではなく、インバウンドの姿もそれほどでもない。
むしろ程よい混雑ぶりなのだが、とにかく不快な湿気が私を覆い尽くした。
歩を進めるごとにビールとハイボールに浸った体がどことなく火照りを後押しした。
それにしても、見知らぬ街を巡るのは私にとって実に貴重であり愛おしい。
観光するわけでもなくイベントに参加するためでもない。
あたかもそこに住んでいるかのように、あるいは引越するための事前調査のように歩き、その街が放つ独特の空気感、そこで暮らしている人々の表情や雰囲気、そこで営まれ育まれる美味を愉しむことこそ醍醐味なのだ。
17時を回りかけていた。
駿府城公園の側で静岡市の中心部を貫くように伸びる青葉シンボルロード、さらにその周辺に点在する青葉おでん街や青葉横丁に差し掛かった。
無表情なビル群の中に突如として現れるそのノスタルジックな風情に一瞬にして惹き込まれつつも幾許かの躊躇をもたらす、いわば異彩を放つ様相だ。
やはりすでに多くの客がそれぞれの店を埋め尽くし、しかも華やぐ声音が店頭にこぼれて来ると、私の足はそこから遠退いた。
もう少し足を伸ばすと、居酒屋の小さな赤提灯が佇んでいた。
営業を開始したばかりらしく、私は何か不思議な安心感に導かれながら長く伸びるカウンター席の中央に座した。
店内は、通路を挟んでカウンター席と座敷席に整然と分かれている。
座敷席にはすでに常連客風の地元客が宴を始めていた。
まずはビールの生中ジョッキ(600円)と「タコ刺身」(590円)と「マグロ刺身」(590円)を注文した。
私の眼の前の厨房に掲げられているボードには、静岡の地酒ラインナップが掲げられている。
磯自慢以外は聞いたことのない名称が並び、軽い衝撃と自らの不勉強をあらためて知るだが、街の蒸し暑さが日本酒を拒んだ。
タコとマグロの刺身がそれぞれの皿で訪れた。
そのボリュームもさることながら、マグロの艶めかしい色合い、タコの鮮やかな彩り、それぞれを引き立てるわかめの濃緑とのコントラストに私の眼は釘付けになった。
当然ながらその味は実に深く、しっかりとした鮮度を主張している。
見ているだけでビールがいともなく容易くなくなってゆく。
痛風という危険を逸らすかのような蒸し暑さのせいだと不条理文学の主人公さながら、私は気温のせいにしてビールを追加注文した。
おそらく夫婦で店を営んでいるのだろう。
女将さんらしき女性が朗らかな笑みを浮かべながらビールを運んできた。
再びメニューを見ると、静岡らしいメニューに気づいた。
その中に静岡名物のひとつである黒はんぺんフライを見つけた。
しかし、今の私の体調を考慮すると揚げ物は回避しなければならない。
『ビールを飲んでいるくせに』
と私は自問自答している耳障りな声にうろたえていると、「黒はんぺん焼き」(390円)を文字が飛び込んできた。
ビールがなくなりつつあることも確認し、同時にハイボールを頼んだ。
そこに、新たな客が入ってきた。
厨房の大将の反応からして常連の男性客らしい。
「ご無沙汰しています」
とこぼしたその男性客は続け様に、
「久々に静岡に帰ってきたので顔を出しました」
と言い添えた。
さらに、その男性客は連れの客に
「この店はうまいんだよ!」
と噛み締めるように熱く語り始めた。
私はその一言一言に思わず耳を傾け納得の表情を浮かべながらハイボールを飲み、残りの刺身とわかめを食べ尽くそうとしていると、黒はんぺん焼きが到来した。
黒はんぺんとは、鯖、鰺、鰯で構成されたすり身を茹で、それを焼いた郷土料理らしい。
それは、黒というよりも灰色と言っていい。
半円形の随所に焦げ目が施され、ひと握りの刻みねぎと生姜に覆われている。
ひとくち食すると、程よく焼かれた触感は妙に心地よく、それぞれの魚の特質が満遍なく凝縮し、それを締めるように生姜とねぎがその特質を鼓舞するかのようだ。
それにしても、3品しか注文していないのにこの満腹度はもちろんのこと、この満足度は驚嘆すべきだった。
締めは「いわしつみれ汁」(590円)に決めた。
ねぎとわかめに紛れて、いわしのつみれが浮かぶ。
汁を啜ると、それは私の体内のアルコールの悉くをついばみ、融解し、飽和させるほど優しい味つけで、いわしのつみれの身が口内でほどけると、いわし本来の味を保ちながら消えてなくなってゆくのだ。
偶然ながらこの店に立ち寄り、静岡の魚を愉しむ。
そんな贅に包まれながら、会計を済ませて夕刻が兆す外に出た。
手を伸ばしきれなかった地酒や名物はあるものの、私はどこか地元の常連客が行きつけの居酒屋を後にするように、蒸し暑さの消えない見知らぬ街の一角を再び彷徨するのだった。……
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?