【人生最期の食事を求めて】幾度となく訪れてしまうごまさばの誘惑。
2024年3月23日(土)
博多ごまさば屋(福岡県福岡市中央区)
中洲のバーでマスターと深夜3時頃まで話し込み盛り上がったしまったせいで、この日はまさしく寝不足だった。
といって、福岡で過ごす時間は限りある。
朝から時折強く降る雨と寝不足の冴えない思考のせいか、食欲はあるものの昼食に対する開拓力がどうしても芽生えようとしなかった。
しかも昨日同様に博多駅の人混みは雨であろうが著しい。
昨夜、どの店に行っても満席で入店できなかった記憶が蘇る。
うどんであろうが、天ぷらであろうが、ラーメンであろうが、きっとどの店も混雑を極めることであろう。
となると、私の中で揺るぎない存在として想起されるのは「博多ごまさば屋」であった。
福岡に訪れると必ず行く店のひとつだ。
ところが、ここ最近は凄まじい行列店になってしまったことが気がかりになった。
いつもなら散歩がてら街を望みながら向かうのだが、生憎の雨と焦りが私を地下鉄へと誘うのだった。
地下鉄「赤坂」駅に降りた。
雑居ビルが乱立する無味乾燥としたオフィス街は、土曜日ゆえに人通りが少ない。
しかも雨がなおさら人を遠ざけているように思われる。
見慣れた昭和通りまで辿り着くと、信号の先に色とりどりの傘の華が咲き誇っていた。
時刻は11時になる直前だった。
開店早々だというのに、すでに30人以上は並んでいるように見える。
幾許かの驚愕と落胆を引き摺りながら、私は行列後方に足を伸ばし、行列の尾を伸ばすほか選択の余地はなかった。
冷静に考えると、この店の特徴はとにかく食事の提供が早いことだ。
大柄の男性スタッフの張りのある声が歩道にまで轟いた。
その声は地を這うような低音のせいか良く通る声音だった。
すると行列が動き出した。
まるで牛歩のような進み具合だが、いずれにせよ前に進む。
そういえば、と私は過去を振り返った。
これほどまでの行列ができるまでの人気店になるとは。
拠り所のない寂寥感のような感情が折り重なる漣のように次々と押し寄せた。
大柄の男性スタッフの張りのある声がまた轟いた。
入口の右横に設置された券売機で食券を購入するように促している。
以前に比べるとメニューが増えているが、私は迷うことなく「ごまさば丼定食」(1,000円)のボタンを押した。
ここまで来ると入店は間もなくだった。
と思っているとさっそく店内に案内された。
テーブル席に案内する若い女性スタッフに食券を渡すや否や、私は店内の中央にまで歩み、いつもの南蛮漬けと漬物を小皿に盛り、テーブル席に戻った。
そこにはすでにごまさば丼定食がその存在を誇示するように佇んでいる。
私は息を呑みながら静かに全体を俯瞰した。
いつもの通りゴマを纏った鯖の身を持ち上げ、そのまま食することから昼食が始まる。
ネギとゴマと醤油ダレが脂の載った鯖の風味を研ぎ澄まし、海苔の被ったご飯を求めて止まない。
わさびを乗せるとそれは急に鯖の身から甘味のようなものを引き出し、これでもかというほどご飯を催促するのだ。
その目論見に嵌まる前にいったん漬物と南蛮漬けで小休止する。
次に、ごまさばを3切れご飯に載せて丼として食する。
無我夢中に食べること、これほど幸福なことはなかった。
しかし、それを言葉にするや否やその幸福感は幸福感を喪失し、単なる記録として私の背後に痕跡を残すまでなのだ。
そうして私はご飯の残った丼を持ちながら立ち上がり、再び店の中央に向かった。
丼にだし汁を投じてテーブル席に戻るや、残りのごまさばを載せて掻き込むように食した。
引き締まった鯖の身がだし汁に緩むと、その味すらも変貌する。
鯖の刺し身、鯖丼、そして鯖茶漬けのどれもがそこはかとない幸福感をもたらす。
幸福感?
私はまたも私自身の悪癖ともいうべき習慣に襲われた。
この幸福感を言葉にした途端に、そこにはすでに幸福感は喪失しているのだ。
幸福感という掴みどころのない感覚は、内省とともに消失する。
そこに、日本の哲学者西田幾多郎の亡霊が現れた。
西田幾多郎は私が過去に幾度となく挫折した彼の独自の哲学を、ひたすらごまさばを食べ進める私を嘲笑うかのように滔々と語った。
“純粋体験”が幸福感だとすれば、“自覚”とは認識であり、その認識を言葉として記録した途端に、幸福感という純粋経験は無に帰する。
西田幾多郎は、若かりし日に金沢で出会った美しい夕日に“純粋経験”を得たという。
私はと言えば、きっと未知なる幸福感という“純粋経験”を求めて生きているに違いないのだ。
我に返ると西田幾多郎の亡霊はすぐに消えた。
眼の前の食器には残り香と空の食器だけが無造作にあった。
幸福感とも異なる満足感が体の奥底に沈んでいるばかりで、幸福感なるものはもはやどこかに旅立っていったようだ。
入口の前には寡黙な客の列が歩道に伸び続けていた。
雨が止んだかと思うと、すぐに降り出して行列の客は鬱陶しそうに傘の華を開いた。
大柄の男性スタッフが急に店のビニール傘を手にした。
傘を持ってない客はビニール傘を渡されると困惑の表情が緩んでいった……。
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