猿橋(山梨県大月市)ジオ探訪記
日本三奇矯の猿橋
山梨県大月市にある「猿橋」は日本三奇橋のひとつとして昔から有名です。
日本三奇橋とは、江戸時代に築かれた日本を代表する独創的な形をした橋を指してそう呼ばれたようですが、猿橋は刎木(はねぎ)という岩盤に斜めに棒を差し込み、その上に同様の刎木をつないでいく工法で、橋脚のない独特なつくりの橋となっています。
猿橋の伝説や歴史については、現地の案内版や観光案内サイト等に載っていますので、ここではそのあたりの詳しい説明は割愛して、今回は「猿橋はなぜそこに架けられたのか」というジオの視点から探ってみた猿橋についてレポートします。
江戸時代に有名になった猿橋
猿橋がかかる桂川は、富士山麓の山中湖を水源とし、富士吉田-都留-大月を通って相模湖まで流れています。相模湖より下流の神奈川県域は相模川と名前が変わり、相模湾に注がれます。
猿橋付近は、武蔵国・相模国と甲斐国を結ぶ甲州道が通っており、古来より人の往来がさかんでした。特に江戸期以降、甲州街道が整備されて猿橋宿がおかれると、人馬の往来が活発になり耐久性のある橋が必要となってきます。
橋脚を立てるのが難しい高い断崖の上に橋を立てる技術として、江戸時代には刎橋(はねばし)と呼ばれる形式の橋がいくつかありましたが、その中でも周囲の景観的にも絵になる立派なものであった猿橋は全国的にも有名であったとのことです。江戸時代に流行した富士講による富士山登拝も、名声を上げるのに一役買ったものと思われます。
図1は明治時代の地図ですが、この猿橋の位置は、江戸時代のときと変わってはいません。
猿橋はなぜそこに架けられたのか
ところで、桂川沿いの甲州道は、東(相模・武蔵国側)では左岸、西(甲斐国側)では右岸を通っています。途中で桂川を横断しなければなりませんが、猿橋宿付近はいちばん谷の幅が狭まるところです(写真1、図2参照)。
猿橋の起源として、猿が体を支えあって渡ったのでそこに橋をかけたという伝説があるそうですが、なんとか板をつなげば橋を通せるくらい川幅が狭いところを選んだというところではないでしょうか。
右岸と左岸で異なる地質
では、なぜこの場所が狭い谷となったのでしょう。
今回はこの場所が狭い谷となった証拠を探しに現地を訪れました。
まずは、図3の地質図を見ていただくとわかるように、猿橋付近は約8,000年前の富士山の噴火で流れ出た溶岩流(図3の⑤の地層)の末端部になっています。
この溶岩流は猿橋公園内で露頭を見ることができ(写真2)、この溶岩流が猿橋の右岸の断崖を作っています。
いっぽう、左岸側の断崖をつくっている地質は、地質図の③新第三紀の海底堆積物です(写真3)。
つまり猿橋の断崖は、左岸は古い岩石(約1500万~1100万年前)、右岸は新しい岩石(約8000年前)とまったく時代の異なる地質で構成されているのです。
ちなみに、図3の地質図に記載した丸付きの地質説明は、地質の成り立ちの順番を表しています。
ここの地質の成り立ちを簡単に説明しますと、以下のようになります。
まず、数百万年前に関東山地をつくっている古い付加体(図3の①)に、フィリピン海プレートの衝突に伴って丹沢山地をつくる付加体(図3の②)が南から衝突しました。ちなみにその境界が、藤野木-愛川構造線(図3の右上に見える太線)という構造線です。
そして、そのときに両山地の間の海底にあった堆積物や火山噴出物が衝突と共に陸上に押し上げられ岩殿山等をつくっている堆積岩(図3の③)となりました。
その後、第四紀になって、桂川や葛野川、笹子川の流れにそって段丘堆積物(図3の④)が堆積し河岸段丘が形成されました。このときは、まだ猿橋付近もこれほど深くて狭い峡谷にはなっていなかったものと思われます。
最後に、縄文時代に活発に活動した古富士火山の溶岩流(図3の⑤)が、桂川の谷を埋めるように流れ、現在の猿橋付近まで流れ着き、川幅が狭くなってしまいました。
川幅が狭くなると下に削る力が強くなるので、深い谷が形成されます。
そして、数千年かけて現在の猿橋の景観が形成されたのです。
以上、猿橋のジオレポートでした。
なお、この桂川水系は豊富な水量を生かした水力発電が盛んです。
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