「音声メディア」はなぜ今の時代にマッチしているのか
ポッドキャストがふたたび脚光を浴びている。個人でもSpotifyに配信ができるようになり、手探りでやっていた時代と比べると、多くの人に聴いてもらいやすい環境になったことが、再び広がっている一因だろう。
「Japan Podcast Awards」なるアワードが初開催されるのも、かつてのブロガーブームに近いものを感じる。実際に、一部のブロガーやネットのインフルエンサーが、最近こぞってポッドキャストをやっている印象だ。
ポッドキャストの再燃とともに、コミュニティFM でラジオDJをはじめる人たちも、再び増えてきた。80年代あたりにあったミニFMブーム、1992年の放送法改正により制度化されたコミュニティFMブームと続き、インターネットが普及する前の情報ツールのひとつとして、ラジオは大きな存在であったし、ラジオDJは憧れの職業の一つだったように思う。
USTREAM、ニコ生、ツイキャス、そこからYouTubeや、前述したポッドキャストと、個人で発信することが当たり前になってきたのもあって、いわゆるプロの芸能人でなくても、喋りがうまい人は増えてきた。私もかつては、その中のひとりであった。ラジオがまだアッツアツだった時代に触れてきた世代は、コミュニティFMであっても「ラジオDJ」という肩書にしびれるのだ。
コミュニティ放送局は年々増加傾向にあり、総務省の発表によると2018年度で全国で325の放送局がある。(※コミュニティ放送局の事業者数の推移|総務省)
数は増えているとはいえ、1つの時間帯に放送できる番組数は基本は1つなので、それだけラジオDJになることができる人間に限りはある。そうなってくると、個人で発信するポッドキャストはもってこいだ。
ここまでは、あくまでもポッドキャストが再び広がっている現状について語ったにすぎないが、令和初期の今、ポッドキャストはわかりやすく時代にマッチしていると感じることがある。
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自分は、某放送局でラジオ番組のディレクターをしているが、ラジオの一番よいところは「映像」がないことだ。一時期からUSTREAMやYouTubeLIVEなどで、映像の同時配信をおこなう番組も増えてきたが、個人的には「映像」がないことが、最大のメリットだと感じている。
過去に某テレビ局でテレビ番組のディレクターをしていたこともあり、その違いについて、制作側の視点から気づくことは多い。
テレビに映像はつきもの。これは便利であるようで、ときに足かせになる。たとえば、ついさっき「駅」という名曲について語る某テレビ番組の映像がSNSで流れてきた(これ自体は違法アップロードなので良いことではないが、、、)。
「駅」は竹内まりやさんが作詞・作曲し、中森明菜さんに提供した曲。その後に竹内まりやさんが自身でもセルフカバーした。電車の駅を舞台に、かつての恋人との思い出を振り返りつつ、現在地を歌う名曲だ。
この曲を竹内まりやさんがセルフカバーした理由が、非常におもしろく今でも語り継がれているのだが(「駅」についての話は、調べればいっぱい出てくるのでそちらで)、こうした情報を出す際に、テレビの場合は以下のような情報が必要になる。
・実際の曲
・楽曲のジャケット写真
・「歌詞」について触れる際は、その部分の歌詞
・本人もしくは関係者のインタビュー、もしくは写真
・ミュージックビデオやイメージカット
これ以外にも「●●のスタジオで録音した」といった話題が出たら、そこの映像or写真(最悪はスタジオのイメージカットに注釈で「※イメージです」といれる)などといったことも必要なる。
しかし、これがラジオだと以下の内容で事足りる。
・実際の曲
もちろん本人のインタビューがあったほうがベターだが、ラジオの場合はイメージ映像などはいらない。むしろ映像がないことで、当時の本人が喋っているようなイメージが脳内に浮かんで、テレビよりも鮮明になる効果すらある。
テレビと比べると圧倒的に、情報量が少ないのだが、その分、ラジオDJの力量が問われる。というか、むしろそれが一番大事なのだ。
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1つの番組に何人ものレギュラーDJがいて、今週はAとBとC、その次の週はAとCとD、その次の週はBとCとEみたいな形の番組がある。DJのスケジュールが都合つけやすいというのもひとつだろうが、複数DJにすることで、1人でも多くの人に聴いてもらおうという考え方から、こうしたキャスティングにしている場合が少なからず多い。
私はかつて、インターネット放送曲で番組をつくっていた時代があったのだが、そこでの番組は、ほぼ素人のようなタレントさんたちばかりだった。1人あたりのファンなんでたかがしれている。そのため、とにかく出演者を増やして、数で勝負しようという考え方でキャスティングしている番組ばかりだった。しかしその結果、番組の色がぼやけてしまい、それぞれのファンすらも見ないものになってしまった。これは「あるある」だ。
ラジオでも同様のことがある。長く続く番組は、曜日ごとでDJが違うことがあっても、基本は1人、もしくはプラスアシスタント1人といった1〜2人の少数の構成のものが多い。さらにゲストも、1人多くて2人ぐらいまでにとどめている。何ならゲストを呼ばない番組も多い。
これは音声だけで聴いていると、出演者が多いことで、会話の流れがわかりづらくなるのが理由のひとつだ。
テレビであれば5人同時に出ていても、喋っている人以外もフレームにおさめておけばよく、むしろあまり喋りが得意でないタレントさんも出演させられるし、それぞれのファンも姿さえ見れればよいので、キャスティングを量で勝負するのは、少なからず正解なのだ。
しかしラジオの場合は、同時に喋るとワケがわからなくなるし、喋らない人は居ないのと同じになってしまうため、無理にも話させるし、その分、1人あたまのトーク時間が短くなるし、喋りがうまくない人が喋ってしまうとそれこそ番組としてのクオリティも下がってしまう。結果として、それなりに喋ることができる人が、少数でしっかりと会話し楽しませてくれる番組がベストなのだ。落語でいえば、ラジオは寄席、テレビは大喜利。
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音声メディアは少数のほうが良いとして、じゃあ番組の人気=出演者の人気度が関係しそうだが、タレント力はあったほうよいが、人気番組のDJがすべて人気タレントということもないのが実情だ。そのラジオ局では人気でも、テレビにもほとんど出なければ、雑誌にも出てこない、Twitterのフォロワーは1万人にも満たないなんてことは普通にある。
ここで重要なのがエンゲージメント率だ。
番組を聴いているリスナーの中で、その番組を「スキ」だと思っている数、そしてその中で毎週聴いてくれる人の数、さらにいえば番組へのおたよりや、SNSでの言及といったリアクションがしっかりあることが大切。
例えばTwitteで10万人のフォロワーがいる人を5人あつめて、ラジオ番組をやったとして、初回はそれなりに聴いてくれるだろうが、話が全くおもしくなかったり、5人が毎回でていなかったり、リスナーのお便りは紹介しない、番組の構成も毎度違って名物コーナーがない、ゲストが大量に出てくることでメインである5人の話が全然聞けないなどといったことがあると、だんだんと聴く人は減る。いや、すぐいなくなる。
一方で、若手の落語家がピンで、毎週おもしろ小話をやっている番組があったとしよう。話のクオリティがそこそこあるのは前提として、この番組で面白い小話が聞けるという安心感、お便りをしっかりと取り上げてくれて、さらに語り口が楽しいとしたら、前述した5人の番組よりも聴いてみようと考える人の割合は多いだろう。いわゆる番組としての魅力が高いのだ。
この2つ、圧倒的にエンゲージメント率が違うことがわかる。そして、これは現在のSNSやウェブメディアで求められているものと全く同じ。つまり、いまポッドキャストをやっている人たちは、少なからずともそうした流れを理解しているし、そこで試行錯誤することが普段の自分の仕事に繋がっていることが、意識的であるか関係なく分かっているのだと思う。
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2010年代後半は「個」の時代と叫ばれた。令和となった2020年前半はラグビーのワールドカップに代表されるように「個」が集合した「チーム」、いうならば「集合体」の時代になっていくと思う。
先程の落語家DJの番組も、1人で作っているわけではない。それぞれのエキスパートが集合し、1つの集合体をつくりあげていくことが大切なのだと思う。そこで一番の基準は「エンゲージメント率」であることを忘れてはならない。目先のPVや再生数ばかりに囚われず、その中身をしっかりと分析し、次に活かすことができるチームこそが、これから勝てる存在、勝てるメディアなのだと思う。
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