方向感覚の喪失と死の旋律
遺伝子レベルで発生せざるおえない男女差の一つに、方向感覚の鋭敏さがある。
古くより仲間と共同して狩りをしてきた男性は、基本的に家にいて遠出をしない女性に比べ、地形等を把握する感覚が優れており、自分が今どちらを向いているかということを認識する能力に秀でている。
私はこれまで、このような豆知識をずっと覚えていられるくらいには頻繁に、あらぬ方向に歩みだす女性に、正しい道順をお伝えしてきた(もちろん、この豆知識も毎回自慢げに紹介している!)。
そして、このような成功体験が積み上がり、いつのまにか自分の方向感覚はかなり鋭い方なのではないか、などと自負心を持つようになっていた。
しかし、やはり、方向感覚が狂うということはある。
例えば、デパートでのウインドウショッピングのように、窓のない建物の中を、そこに置かれているものに気を取られながらぐるぐると歩いた後は、外の世界において自分がどちらを向いているかということは、たいてい分からなくなっている。
しかし、出入り口までの道筋はわかっているので、ほとんどの場合このことはあまり問題にならず、無事その建物から生還する。
やっかいなのは、複数の階において外の土地とつながっているような建物である。例えば、建物自体に美術品的風格のある美術館などだ。
ある階から入り、窓のないところをぐるぐる回り、違う階に登って、外に出る。
このようなことをすると、本当に別世界にでも来たような気持ちになる。
いざ別の階から外に出てみると、さっき入ってきたのがどの方向からだったのか、全く分からなくなっている。
自分がその歩みを進めている方向に対して、いかに気を使わずにいたのかという事実が顕在化する。
方向感覚に対して持っていた絶対的な自信が、その方向感覚を失う…。
それでも、デパートの例と同じく、ここまで来た道のりは覚えているので、その通り戻っていけば、元の場所に帰ること自体は可能だ。
だから厳密には、私はこの美術館において「迷った」訳では無い。
しかし、一度心に刻まれた方向感の喪失は、心地よくその建造物を後にすることを許してはくれない。
「お前は、たとえ一時だったとしても、自分がどこにいるのか分からなくなったのだ。」
「お前は、死んでいたかもしれないのだ。」
そんな声が、身体を構成する60兆個の細胞に宿るDNAから聞こえてくる。
弓を強く押し付けられたバイオリンのように、その二重螺旋状に編まれた弦が、ハイピッチで重低音を響かせる。
太古の記憶は、今も私を恐怖で縛っているのだ。
このように遺伝子に刻まれた恐怖に対してどのくらいの距離感を保って生きていくべきなのか。
そのことに関する方向感覚は失わないよう、日々どちらを向いているのかに気をつけながら、生きていきたい。