映画「世界の中心で、愛をさけぶ」
ロケ地は香川県や愛媛県だという。どうしてこうも瀬戸内海という場所にはドラマが生まれるのだろうか。
港があって、島があって、程よく田舎で。海を見下ろす開けた場所が無数にあって。都会に住んでいる人間からすれば珍しいもの、惹きつけられるものの宝庫なのかもしれない。
劇中でも、友人の船に乗って近くの無人島まで行き、一泊のデートをするという一幕がある。船舶免許を持つ高校生。すぐに行って帰って来られる場所にある無人島。こんなものがゴロついていれば、そりゃドラマが生まれないわけが無い。舞台設定は大事であり、卑怯である。
海を見下ろす小さな公園、夕日が照らす海原に突き出た防波堤。二階の窓から瓦屋根に出て亜紀の吹き込んだカセットテープを聞く朔太郎。こういうものを見せつけられると、田舎の暮らしはいいもんだな〜と思ってしまう。
亜紀と朔太郎のロマンスを描く本作はこのような舞台にて展開される。
この恋は、学校には内緒でバイク通学をしていた朔太郎に亜紀が話しかけるところから始まる。いきなり二人乗りをさせてくれと頼む亜紀。学校にバラされたくない朔太郎は渋々応じ、防波堤まで亜紀を乗せて走る。
亜紀はクラスのマドンナ的存在だが、朔太郎は特にモテるようなタイプではない。なぜ彼女が朔太郎に惹かれたのかは明確に描かれていないため分からないが、実際の思春期の恋というものもまた、明確な理由なく始まるものであるだろうから、それはそれでリアリティのあるところだと感じる。
同じラジオを聞き始めたり、バイクに乗って一緒に帰ったり、公園に行ったり。そんな日々の中で二人はお互いにさらに惹かれ合っていき、それが無人島デートへとつながるのだ。しかし、その島から帰る直前、亜紀が突然倒れる。
彼女は白血病を患っていたのだ。亜紀が入院したことで簡単に会うことができなくなった二人はカセットテープでのやり取りを始める。
亜紀は間もなくこの世を去る。残されたのは何本ものカセットテープだけだ。
時が経ち、朔太郎は大人になった。あることがきっかけで亜紀のことを思い出し、実家へと帰る。そこにはあのカセットテープがあり、それを聞きながら、彼は亜紀との思い出の場所をめぐる。
亜紀の死から眼をそむけ続けてきた朔太郎は、彼女の声を聞くたびに、まだその思い出の場所に彼女がいるように感じる。そして、その気持ちから逃れられないことに苦しむ。
しかし、そんな朔太郎に、亜紀が残した最後のテープが届けられる。そこには死期を覚った亜紀からの、「今を生きてほしい」というメッセージと、自分の灰をウルル(オーストラリア。二人が無人島で見つけたカメラに撮られていた場所。)の地に撒いて欲しいという願いが吹き込まれていた。
朔太郎はウルルへ飛んだ。そして、小瓶に詰めた彼女の灰を手のひらにのせ、それが赤い大地を吹きすさぶ風に舞い上がる様を見届けた。
瀬戸内海、高校、恋愛、青春、病気、薄幸の美人、死、死を悼む事。
この物語の主人公はやはり朔太郎だ。これは、彼が片田舎の高校生から、人を愛すということ、そして、その死を自分の中で昇華するということを行いうるまでに成長する物語だ。
「世界の中心がどこか分かった気がする。」
そんな彼の台詞を理解するには、私はまだ未熟なようであるs。