ウィル・スミスの件。
一週間、書こうか迷ったけど、良い悪いではなくて
今の気持ちを残しておきたくて書こうと思った。
むかーしむかし。たぶん小学校くらいの頃のこと。
体格のいい男の子が同じ学年だけど小さい男の子をネチネチいじめていました。でも、ケガをするような手の出し方はしない。毎日毎日。侮辱するようなことも言ってた。毎日毎日。
ある日、小さい男の子が逆襲した。ほうきの棒で後ろから思いっきり叩いた。体格のいい男の子は血だらけになって大騒ぎ。
怒られたのは、小さい男の子。
ずっとガマンしてきた小さい男の子。
それでもあなたは手を出した方、小さい男の子が悪いと思いますか?
ボクは思わない。
侮辱するような言葉のことを「言葉の暴力」と呼ぶ人がいる。
その表現はわりとしっくりくる。その通りだと思う。
では、小さい男の子を罵り続けた時点で、体格のいい男の子はすでにめちゃめちゃ暴力を行使していると、ボクは認識する。
そうなると多くの人が今回の件で持ち出している「先に手を出した方が負け」理論は破綻する。暴力の形が違っても、正当防衛に近い感覚。
今回の件で、ロシア・ウクライナのことを持ち出す人がいる。
ロシアのようなチカラを行使することはいけないという中で、やっぱり手を出してはいけないのだと。それはウィル・スミスをロシアに見立てていることになる。でも、それは違う。ウィル・スミスの立場はどちらかというとウクライナ側。言葉ではあるけど、暴力を振るわれたので反撃をしているわけで。
だとすれば、いくら反撃でも「手を出してはいけない」という理論にあてはめた場合、ロシアに攻め込まれてウクライナは反撃してはいけないということにはならないだろうか?
ロシア・ウクライナ情勢を持ち出して、「だからウィル・スミスは良くない」と言っている人に問いたい。「ってことはあなたはウクライナはやられっぱなしでいた方がいいと思うんですね?」と。
作家という言葉を扱う仕事だからこそ、「言葉の暴力」には敏感にならざるを得ない。言葉でも人を強く傷つけたら、それは「暴力」なんだと思う。そっちの暴力は許されて、こっちの暴力は許されない、なんてある?
暴力はきっとどっちも許されないこと。本来そこには差が無いはず。
今回の件、個人的にはウィル・スミスが手を出したことは賞賛しないけど、共感なら激しくできる。優等生的な答えはどっちも悪い、かもしれないけど、ボクはやっぱり「怒った方」より「怒らせた方」に強く非があると思う。
もう一つ、ウィル・スミスを支持する理由。
もしもボクが同じように妻や娘を侮辱されたとしたらと考えると、その舞台が大きければ大きいほど動けないのではないかと思う。きっとボクにはそこまで勇気がないと思う。45年間、本気で人を殴ったことなど一度もないし。それで、きっとその日の夜に愚痴りながらしこたま飲むと思う。多分ちょっと泣きながら。
手は出さない方がよかったのかもしれないけど、反射的に立ち上がることができたことに対しては、ボクは素直に賞賛を送りたい。
結局僕らがとやかく言う問題ではないのかもしれないけど、ボクは少なくとも反射的に立ち上がって抗議をできる夫、父親でありたいと強く感じた出来事だった。