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神の手(上) #2

「少し落ち着かれたようですね」

頭上の声に促されるように、随行員たちは佐渡原の衣服を整える。仰向けにされたあと、佐渡原は身ぶりで座らせるように指示をした。

「先生。ご気分はいかがですか」

私設秘書が佐渡原の額から汗を拭いながらたずねた。陶器のように冷え切っていた皮膚に、温もりがもどり、佐渡原は表情を緩めた。

「ゆっくり深呼吸をしてください。慌てないで」

言われた通り、ゴムマスクを当てた口で大きく息を吸い込む。途中で咳き込むが、優しく背中をさすられて落ち着く。

「……ありがとう。少し楽になったよ」

佐渡原は悪夢から覚めたように、茫然ぼうぜんとした笑みを見せた。

「佐渡原先生。こちらの方が薬をくださったのです」

「そうですか。助かりました。あなたがいなければ、死んでいたかもしれない」

「もう大丈夫でしょう。念のために成田に着くまで酸素マスクはしていてください。わたしは席にもどりますので」

「いや、もう少し、ここにいてもらえませんかな」

佐渡原が救いを求めるように手を伸ばした。

「そうです。万一、また発作が起きたら困るので、こちらに席を移っていただけませんでしょうか。ぜひお願いします」

政務秘書が外務省の担当官に命じて、手荷物を取りに行かせた。

「わかりました」

移動を求められた人物は、空席だった佐渡原の横に座り、静かに両手を膝の上にのせた。元総理の横でも緊張することなく、自分が緊急事態を救ったという気負いもない。

「いや、とんだご迷惑をおかけしました。わたしも歳には勝てんということですかな」

今年、七十六歳になる佐渡原は、自分ではまだまだ若いつもりでいたが、謙遜と自嘲を込めて苦笑した。

「これまでずっと健康できたものですから、つい油断してしまいました。面目ない」

「いえ。大事に至らなくて幸いでした」

「それにしても、心臓発作というのは恐ろしいですな。あの苦しみがあと十分続くと言われたら、とうてい耐えられない。死んだほうがましだと思いますよ。あ、いや、これは失言。助けていただいたのに、失礼いたしました」

佐渡原が恐縮すると、となりの相手は穏やかに微笑した。そのとき、わずかに首を振ったのが、佐渡原に違和感を抱かせた。死んだほうがましと言った失言を、あたかも肯定するかのようだったからだ。

通路をはさんだ向こう側から、私設秘書が盛んに佐渡原の調子を案じる目線を送ってくる。佐渡原は片手をあげて、大丈夫であることを身振りで示してから、ふたたびとなりの人物に話しかけた。

「日本の医療は世界のトップレベルで、それだけは安心ですな。こうして飛行機の中で発作を起こしても、無事に救ってもらえる。新しい薬や治療法もどんどん開発されているのでしょう」

「そうですね」

「これからは、あなたのような方が活躍されることが、日本の医療の発展には欠かせませんな。臓器移植法も施行されたことだし、医療は前途洋々でしょう。日本国民の一人として、大いに期待していますよ」

「いえ。日本の医療は前途多難です。むしろ、危機的な状況だといったほうがいいでしょう」

相手は深い諦念を込めて言った。控えめながら、元総理のお愛想をまっこうから否定するかたくなさが感じられる。

「どういうことですかな」

佐渡原はやや表情を強ばらせて訊ねた。相手は悪びれもせずに答えた。

「かつての医療は、ただ進歩さえすればよいという状況にありました。しかし、今は医療が進みすぎて、現場であらゆる矛盾が噴出しています。たとえば、末期の患者を死ぬに死ねない状況にしてしまう延命治療。命を延ばす治療が、患者の尊厳を損ない、本人と家族に大きな苦しみを背負わせています」

「しかし、そういう問題も、医療がさらに進めば解決するのではないですかな」

「延命治療はいくら進歩しても病気を治すものではなく、患者を死なせないようにするだけです。生身の身体は臓器や部分ごとに寿命を迎えます。それでも死なせなければ、身体は生きたまま腐るだけです」

無理に人間を死なせない状態にすると、たしかにそうなるのかもしれない。生きたまま腐るという言葉が、佐渡原の耳に暗示のようにこびりついた。

「なるほど。延命治療はほどほどにすべきかもしれませんな。だが、ほかの分野はちがうでしょう。全体としては、医療の発展がよりよい状況を生み出すのではありませんか」

相手は目線を前に向けたまま、深刻そうに首を振った。

「医療が発展すれば、高度な治療が可能になる反面、医療の細分化が進みます。治療は複雑になり、多大の時間と経費がかかるようになる。つまり、患者の数は同じでも、相対的に医師不足になるということです。たとえば、胃がんでも、かつてはバリウムと胃カメラくらいで手術をしていましたが、今はCTやMRI、超音波の検査もしなければなりません。最近実用化されたPET、血管造影、さらにはがんの遺伝子検査なども必要となるでしょう。治療の精度が上がる代わりに、一人の患者にかかる時間が増え、医師は多忙になります。また、患者の知る権利が増大し、これまで医師は手術前に一回説明すればよかったのが、入退院の前や、検査のたびに説明しなければならなくなります。プライバシーの保護、同意書の取得、病院の情報公開など、医師の業務は煩雑化し、激務化が進むでしょう。そうなると、病院を逃げ出す医師が出てきます。残った医師はますます激務になって、さらに病院を離れるという悪循環に陥る。その結果、病院医療の崩壊がはじまるでしょう」

「ちょっとお待ちください」

佐渡原は相手の勢いに歯止めをかけるように訊ねた。「病院から逃げ出した医師はどこへ行くのです」

「開業する医師もいるでしょう。しかし、産業医になったり、保険会社の社医になったり、アルバイト医になる者も少なくない。彼らは医療を支える役割を果たしません」

たしかに開業医以外は、まともに患者を治療しないだろう。佐渡原は“同窓会サミット”で、ミッチェル元首相が自国の医療制度を嘆いていたのを思い出した。イギリスでは医師がすべて国家公務員であるため、競争原理が働かず、サービスの質の低下が著しいという。

リーガン元大統領も、保険会社が牛耳るアメリカの医療に頭を抱えていた。公的保険が十分でないため、医師が患者の治療より、保険会社の利益を優先する状況が社会問題になっているのだ。彼らの話を聞きながら、世界に誇る国民皆保険制度を持つ日本だけは、そんな問題に悩まされることはないと、佐渡原は楽観していたのだった。

しかし、それは根拠のない思い込みだったのか。佐渡原はふと不安に駆られて、慎重に訊ねた。

「もしかして、ほかにも日本の医療に危険な予兆はあるのでしょうか」

「ありますね」

相手は平然と答えた。「医療の進歩は幻想を生み、世間とマスメディアに絶対安全信仰のようなものが広まりつつあります。それは医療に対する監視を強め、医療ミスや医療体制の不備に厳しい目が向けられます。

医療ミスの件数は現実には減っているのに、マスメディアが派手に取り上げるため、増加しているような印象を与えます。世間の医療不信は深まり、医療訴訟が増加するでしょう。医師は自由に科を選べるので、医療訴訟のリスクが高い産科や外科、夜間の救急患者の多い小児科や特殊救急部に進む者が減り、全体のバランスが崩れます。

また、今の医師は医局制度の中で勤務地が決められますが、まもなく医局制度が崩壊し、教授の権威は失われるでしょう。そうなると、僻地に勤務する医師はいなくなり、地方は医療体制を維持できなくなります。大都市に病院が集中し、患者を集めるためにそれぞれが高額な医療機器を備え、稼働率を高めるために、不要な検査や治療をはじめるでしょう。

患者は『念のため』という便利な言葉に惑わされ、過剰な医療を歓迎します。日本の医療費は加速度的に増大し、やがて日本経済さえ脅かすことになるでしょう。医療の崩壊が、国家の崩壊へとつながりかねない危険があるということです」

話を聞きながら、佐渡原はさっきの発作とは別の脂汗をにじませていた。冷静に語られた言葉は、周到に計画された国家転覆のシナリオのような現実味を帯びていた。これまでも医療界の実情は、たびたび識者から聞いていた。しかし、ここまで理路整然と、包括的に危機を語る人材はなかった。

「あなたは、なぜ、これほど詳しい情報をお持ちなのです」

「別に詳しいわけではありません。日々の仕事の中で、自然に見えることを、冷静に判断しているだけです」

穏やかな声にはある種の強靭きょうじんさが感じられた。本質が見えている者にしか抱き得ない揺るぎない確信。佐渡原はそれとなく相手をうかがい、この控えめな人物が、自分の求めるブレーンにふさわしいことを直感的に見抜いた。

「こんなことを申し上げると、笑われるかもしれんが、わたしは今もこの身を日本のために役立てたいと考えておるのです。日本の医療が崩壊の危機にあることは、あなたのお話でよくわかりました。その危機を回避するために、どうかあなたの力を貸してくださらんかな。医療は、わたしが余生をかけて改革に打ち込むべき分野だとさとりました。ぜひあなたの、いや、“センセイ”のご協力をお願いしたい」

佐渡原は、これまで先輩議員以外、医師でも弁護士でもめったに「先生」と呼ぶことはなかった。今、思わず相手をそう呼んだのは、彼の率直な敬意の表れだった。“センセイ”と呼ばれた相手は、別段それを喜ぶでも恐縮するでもなく、恬淡てんたんとしていた。そのことが、佐渡原にいっそうの好意と信頼感を抱かせた。

「日本にもどったら、ぜひ一度、じっくりお話を聞かせていただけませんかな。那須なすにあるわたしの別荘にお出でください」

「わたしでよければ、精いっぱい努めさせていただきます。佐渡原先生のような方に後ろ盾になっていただければ、日本の医療も崩壊の危機を免れるかもしれません。医療は政治にも密接に関係していますから」

「というと?」

「先ほどおっしゃった臓器移植などもそうでしょう。法的な整備がなければ、どれほど必要とされている医療も行い得ませんから……」

思わせぶりな沈黙に、佐渡原は首を傾げる。

「ほかにも何か懸案があるのですか」

「そうですね。最初に申し上げた延命治療にも関わることですが、重要な医療が、法の壁に阻まれております」

佐渡原がさらに怪訝けげんな顔を向けると、“センセイ”は夢見るようにつぶやいた。

「それはつまり、安楽死の合法化です」

……

それから十二年の歳月が流れた――。

◇  ◇  ◇

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