#3 開花した商才…直木賞作家が描く渋沢栄一の激動の人生
武蔵国の豪農に生まれ、幼少期からたぐいまれな商才を発揮した渋沢栄一。幕末動乱期、尊王攘夷に目覚めた彼は倒幕運動にかかわるも、一橋慶喜に見出され幕臣となり、維新後は大蔵官僚として日本経済の礎となる政策に携わる……。1万円札の「新しい顔」として、改めて脚光を浴びている渋沢栄一の激動の人生を活写した、直木賞作家、津本陽さんの『小説 渋沢栄一』。本作品の冒頭部分を、特別に公開します。
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藍玉商人
嘉永六年(一八五三)六月三日、アメリカ東印度艦隊司令長官、海軍准将ペリー(一七九四~一八五八)が四隻の軍艦を率い、浦賀湾頭にあらわれ、砲声をとどろかせたという噂が血洗島に聞えたとき、栄一は耳朶を一撃されたような驚きを覚えたが、尾高藍香のもとへ勉学に通うこともまれになり、畑仕事に打ちこんでいたので、十四歳の栄一は、さほどの感慨もなかった。
この年、関東は旱つづきで、一番藍は不作をきわめたが、二番藍は大豊作であった。
父の市郎右衛門は、祖父の只右衛門に頼んだ。
「今年の二番藍は、上作だによって、できるだけたくさん買入れたいのですが、わたしは信州から上州の紺屋まわりをしなくちゃならねえのです。それで、今年の藍の買いつけは、よろしゅうお頼みいたします。
もう年をとって、大儀な用をお頼みするのは、すまねえことだが、栄治郎を供にして、手足に使ってやっておくんなさい。栄治郎も商いの修行に、御祖父さんに駆けひきを教えてもらいな。いいか」
当時、栄一は栄治郎と呼ばれていた。
彼は自分でも藍の良し悪しの見分けぐらいはつく。父の留守のあいだに、自分の才覚で買ってもらえるようなはたらきをしてみせようと、思いたった。
そのうちに、二番藍葉買いつけの季節になった。
栄一は初日には祖父に従い、矢島という村へゆき、一、二軒で藍を買いつけたが、祖父の交渉の手際は、あまりほめられるようなものではない。
――藍の見分けじゃ名人といわれる親父についてゆくのは、恥ずかしくはないが、しかし、御祖父さんが下手な見分けをするのを黙って見ていちゃ、人が笑うであろう。おれはまだ子供だが、親父のすることを脇から見て、ひと通りのことは分ってるさ。老いぼれた御祖父さんに黙って供をしていちゃ、あいつは才覚がないと、人に笑われる――
栄一は祖父にいった。
「御祖父さん、おれはこれから先をひとりで廻ってみたいんだ」
祖父只右衛門は、許さなかった。
「お前がひとりでいっても、何ができるんだ」
「たしかに子供だけど、ちと考えがあるんだよ。御祖父さん、腕試しをさせてくれねえか」
ひとのいい只右衛門を承知させるのに、手間はかからなかった。
栄一はいくらかの金を祖父から預かり、胴巻に入れて、着物の八ツ口のところからしっかりと腹に押しこんでむすび、ひとりで新野村という集落へ出向き、「藍を買いにきたんだ」といったが、鳶口髷の子供である。村人はあなどって信用しなかった。
「お前は、血洗島の市郎右衛門さんの息子だっていうが、まだ子供じゃないか。市郎右衛門さんがいくら腕利きだといって、お前のような小僧っ子に藍の見分けなどできるわけがねえ。いくら大口叩いたところで、お前なんざ誰も相手にしねえだろうよ」
栄一はひるむ様子もなく、胸を張った。
「おれが子供だからといって、藍の見分けができないと思うかね。お前さんのところじゃ、どんな二番藍が採れたのか、ばかにしていないでおれに見せてみな」
栄一は市郎右衛門についてまわり、藍の仕入れかたを覚えこんでいたので、平然と土間へ入りこみ、藍葉を見ていった。
「こっちの葉は、こやしが足りねえな。〆粕を使っていねえだろう。こっちは乾きがよくねえよ。それに茎の切りかたが悪く、下葉が枯れている」
栄一は、医者が病人を診断するように、藍葉の出来栄えを的確に批評してみせた。
村人たちは、その指摘が当を得ているので感心しはじめた。
「妙な子供が来たねえ。血洗島の市さんの子だというが、たいした目利きをするぞ」
村人たちは栄一を珍しがって、商談に乗った。
栄一は新野村だけで二十一軒の藍を買いしめた。彼は大人に対しても、物怖じをしない。
「お前ん所の藍は、こやしが悪いのでは。ほんとの〆粕を使ってないから、いけねえのさ」
などというと、村人は言葉をあらためて、おそれいった。
「なるほど、さようでござります。どうしてそれが分りますべえか」
栄一は、翌日には横瀬村と宮戸村、その翌日には大塚島村、内ケ島村と近郷諸村をしきりに買って歩いた。祖父が「おれもいっしょにいかねばならねえ」というと、「御祖父さんは行かんでもいいさ」ととめ、その年の藍はほとんどひとりで買い集めた。
旅から帰った父市郎右衛門は、栄一の買い集めた藍葉を見て、その手際をおおいに褒めた。
良い藍葉を、しかるべき仕入れ値で大量に集めていたからである。
その後、栄一は農業と藍の商売に力を入れ、父の手伝いをするようになった。それは努力して労働をするというのではなく、趣味となったのである。
藍の製造や農業をつとめることがおもしろい。作物の出来ぐあいも、自分の畑を工夫して利を収めるとともに、他人の作柄も善悪ともに批評して、たがいに栽培の成果があがるのをよろこぶ。
また自分が畑に出て指図すると、作男たちも骨身を惜しまずはたらくので、十七、八歳から二十歳の頃まで、読書のほかに農作業と商売が快楽のひとつとなった。
紺屋のおおかたは信州で、小県だけで五十軒ほどもあった。藍玉は俵に詰め、駄馬の背につける。十貫目の俵を四俵つけたが、信州は山地なので三俵にした。
山国で雪が深いので、香坂峠、内山峠という峠を越すのに難儀をした。小県では二十五両の切餅という小判包みを四個、百両も胴巻に入れて歩いた。五百匁(約一・九キログラム)もあるので、なかなか疲れる。
道中では角帯をしめ、半股引に脚絆、草鞋ばきである。雨具、帳面などを入れた両掛けというものを肩にかける。
腰には道中の用心に脇差を一本差した。栄一は撃剣を身につけているので、万一山賊などに襲われたときには斬りあうつもりで、刃渡り二尺ほどの長いものを差していた。
伊勢崎は血洗島から三里ほどの近所であるので、一晩泊りで四、五軒も得意先をまわれた。
正月に信州の得意先まわりをしたとき、雑煮を行く先々で食べさせられ、腹をこわし、家に帰ると黄疸になってしまった。
田舎の大きな餅を、一軒で三つずつ食うと、一日で紺屋を五軒まわれば十五個になる。信州にゆくと十七、八日間は滞在したので、胃をこわしたのである。
渋沢家に残る藍玉の売上台帳(渋沢家「中の家」と信州の紺屋との取引を示す「藍玉通」)によれば、顧客である紺屋の数は百軒に達していたかも知れないと推測できる。安政、慶応の頃には、一軒あたりの売りあげ高が平均百八両であったといわれるので、年間総売上高は一万両以上であったことになる。血洗島附近では比肩するもののいない豪家になっていたのである。
栄一は性来健康であるうえに、筋骨たくましい。背丈は高くないが、膂力は抜群で、撃剣の試合でも、最後には竹刀を捨て、相手と組みうちをして勝ちを得た。重い物を担う力は、村内で一、二をあらそうほどで、他人が重くてもてあます俵などを、かるがると担ぎあげて運んだ。
畠を耕やし畦をおこすとき、五人ほどが横にならび、鍬をふるう。このとき栄一が先に立ってはたらけば、作男たちはついていけなかった。
「若旦那は力が強えから、おれたちには無理な仕事ばっかりして、ほんとに困らせるのだ」
彼らはつい苦情を口にした。
栄一が二十歳前後の頃、元気にまかせ危ない雪の山越えをしたことがあった。
上州から信州へ越えてゆくには峠が九つある。碓氷峠、香坂峠、志賀峠、内山峠、戸沢峠と南につらなっている。大雪の日で、栄一は香坂峠の登り口へきて、日が暮れるまでに信州側へ入れるだろうと、軽率な判断をした。
峠の手前で一泊すればよかったのだが、体力のある栄一は、足をとめなかった。峠を登りつめるまでは、明るかったので歩きやすかったが、下りにさしかかると辺りがしだいに暗くなってきた。
吹雪ではないが、たいへんな降雪で道が見分けられなくなった。人の足跡もなく、曲りくねった道で、曲り角へゆくと気づかずにまっすぐ進むので、雪のなかへ腰まで落ちこむ。それをくりかえすと、しだいに焦ってきて体力を失い、遭難する。
栄一は三度雪中に落ちこみ、疲れきったが、ようやく行手に火明りをみつけた。香坂の村内にまだ入らない山際のちいさな家で、年寄り夫婦がいた。
栄一がようやくたどりつき、戸を叩いた。
「いま上州から峠を越えてきたんだが、たいへんな雪でひどい目にあったんだ。もう動けねえ。泊めてくれねえか」
夫婦はおどろいたようにいう。
「まあ無鉄砲なことをする人もいるもんだねえ。こんな日で、しかも暮れどきだというのに、峠を越す人なんざあありゃしない。それでもここまで辿りつけて、よかったさ」
栄一がこごえた体をあたためるため炉のそばへ寄ろうとすると、老人は押しとどめた。
「そいつはいけねえ。そんなことをすると大変だぜ。あそこに藁があるから、しばらくは寒かろうが、それを体にかけてしばらく休むがよかろう」
栄一は、自分を泊めるのをいやがっているのかと思ったので聞いた。
「体が冷えきっているんだ。どうして早くあたためさせてくれないんだ」
老人は理由を告げた。
「凍えた体で囲炉裏のそばへいきゃあ、火脹れになってひでえ目にあうので、禁物だ。しばらく人心地がついてから、雑炊でも腹にいれるがよかろう」
栄一はいわれるままに空腹を満たし、炬燵もない寒々しい木綿布団にくるまって寝た。
翌朝は足が霜やけで痛み、起きるのもいやであったが、我慢して足をひきずって、香坂村へむかった。
このように血気さかんのあまりに失敗したこともあったが、栄一は少年の頃から思慮がふかく、物事の判断をとっさにきめて誤たない才覚は、きわめて鋭敏であった。