見出し画像

ZERO〈上〉 #4

「いらっしゃい」

重いドアを開くと、薄暗い世界の中で予想に反して野太い声が峰岸たちを迎えた。足を踏み入れた、すぐ右側に、胸の高さほどの小さなカウンターがある。突然その奥から、あぶらぎった男が顔を上げた。

脂ぎった男は、峰岸たちのコートを預かりながら、狡猾こうかつそうな目で後藤の全身を舐めた。

「ご一緒で?」

「頼む」

「では、お二人分で二万円頂戴いたします」

ビート板のようなつらの中に太い眉毛が貼りついた男はニコリともしなかった。峰岸は黒いビニールの財布から最後の札を取り出した。女房の顔がちらっと浮かんだ。傍らでは、後藤が、くしゃくしゃの一万円札を名残惜しそうにカウンターに置いていた。

峰岸のコートを預かった店の男は、その肌触りの良さを知って裏地に貼りついたタグをちらっと覗いた。D&G? このオッサンがね。男は峰岸の頭からつま先まで視線を流した。

「こちらへ」

カウンターから出た受付の男は、反対側の黒いカーテンを裾からめくり上げた。

突然、何本もの赤いスポットライトが峰岸の網膜を直撃した。

喉を鳴らして立ち尽くす後藤の横で、峰岸は何度も目をまたたかせた。ホールを見渡した峰岸の目に飛び込んできたものは、青い煙がうねうねと揺らいでは天井にかすみを作った光景と、赤いスポットライトの中でうごめく客たちの押し殺した卑猥ひわいな笑いだった。

ステージでは、まさに“プレイ”中だった。十字の磔台はりつけだいに手首を拘束された白い裸体があやしげにうねり、赤い蛇のような緊縛ロープが乳房や秘部をい回っている。巨大な性具でじらされ、攻められるたびに、顔を歪めた女の赤い唇から淫靡いんびな声がほとばしった。

目が慣れてくると、前日の実査を元に作図した見取り図の印象よりも、店内はそれほど広くはないことが分かった。十個ほどの黒っぽいソファが雑然と並べられていた。そのためホールの中央を歩くにも苦労するほどである。

店内はほぼ満員だった。すぐ近くのテーブルに、禿げ頭で五十歳過ぎと思われる男がスーツ姿の若い女性と一緒に座る以外は、一人客の男たちがステージを見つめる間も、ボンデージ姿のホステスと卑猥な笑いを続けていた。

そしてホールのちょうど真ん中のテーブルに、コードネーム〈ユウカ1〉が座っていた。防衛庁の資料を、在日中国大使館防衛駐在官ミリタリーアタッシェにカバーした中国人民解放軍総参謀部第2部の諜報員ちょうほういんに流している海上自衛隊員──それが、目の前でホステス相手にだらしなく顔を緩める〈ユウカ1〉である。そして、今日、総参謀部第2部の運営者は、新しい〈仲介マルハン〉と会うことを指定してきた。その場所が、このSMショークラブだった。

峰岸は、店内で、まず三人の男に注目した。いずれも、ステージに近いソファに座り、真っ赤なハイレグボンデージから白い肌を限度近くまで露出させたホステスにべったり寄り添っている。

峰岸たちは、上手い具合にあいていた、ちょうど反対側のソファに腰を落ち着けた。後藤は腰を落ち着けても、顔を忙しく動かしてステージや天井を好奇心丸出しで見つめていた。

ステージでは、純白のTバック一枚の女が、すすり泣いていた。突然、演技じみた絶叫を上げ、赤いロープで縛られた椅子の上でぐったりした。黒いエナメルボンデージに身を包んだショートカットの女がその紅潮した頬に優しくキスをした。そして、我に返った女に首輪をはめ、四つん這いにさせたまま、テーブルの間を歩かせ、黒いカーテンの奥へと消えて行った。店内にパラパラと拍手が起こった。

店内が少し明るくなったことで、峰岸は後藤の胸ポケットから勝手にタバコを取り出して口にくわえた。

「ごめんなさい、今日は早い時間から何だか混んじゃって」

カチッというライターの音の先で、シルバーに塗られた細い爪が目に入った。

「お二人初めてでしょ? こちらの坊やも?」

涙目のような瞳をしたママが、そう言って脚を組んだ時、ロングスカートのスリットが割れ、尻の一部が露出した。後藤は慌てて目を逸らした。

「可愛がってやってくれよ」

峰岸が抑揚のない口調で言った。

「この子、私の奴隷ちゃんに似ているわ」

まんざらでもない風に後藤の顔を見つめるママの視線に、後藤は今入って来たばかりのカーテンへと急いで視線を逃がした。

黒いボンデージ姿のホステスが運んで来たデキャンタを、「ありがとうね」と言ってママが受け取り、「今日は、ゆっくりしていってよ」と愛想笑いを投げかけた。峰岸は小さく笑って、できればね、と言葉をつないだ。

「いらっしゃいませ」

峰岸たちが顔を上げた時、肉付きのいい女の体がスポットライトに照らされていた。乳房がこぼれかけた真っ赤なエナメルのボンデージがキラキラと光った。陰毛の剃り跡まで見えるハイレグから伸びる黒い網タイツの先には、朱色のハイヒールがブルーのネオンを眩しく反射していた。「失礼しまぁす」と言って女が強引に峰岸たちの間に入ろうとした時、タンガからはみ出した白い尻が後藤の目の前で大きく揺れた。

小型CCDカメラが装着された袖口を隣席に向けるために全神経をつぎ込んでいた後藤は慌てて大きく咳払いをした。

「さやかちゃんです。ウチのM嬢。後はよろしくね」

つやっぽい笑顔を残して立ち上がったママは、別のテーブルに駆け寄ると、早くも愛想を振りまき始めていた。

「そちらも水割り?」

タンブラーの中をマドラーでかき混ぜながら小首をかしげるさやかの声に、後藤はぎこちなく頷いた。

「お連れの方、おとしがずいぶん違うようだけど?」

水割りグラスに惜しみなく安っぽいブランデーを注ぎながら、さやかは上目遣いに二人を見比べた。

「出来の悪い、会社の部下さ」

後藤にはその言葉が辛辣しんらつに聞こえた。

「もしかして、カレ、“敷き布団”ってこと?」

たっぷりとマスカラを塗った大きな瞳が後藤を捉えた。

「敷き布団?」

後藤は眉間に皺を寄せた。

「あなたがネコで、こちらがタチかなって」

「いえ、正常です」

後藤が語気強く言った。

「ネコだったら、愛ちゃんにピッタリだったのに。ホモをいじめるのが好きなの」

さやかがケラケラ笑った。

「愛ちゃんって?」

峰岸はグラスの縁に口をつけながら聞いた。さやかが視線を投げた先に、黒々とした髪の毛をきりっと分けた男が、だらしなく口を開けている。隣に座る真っ白い肌をしたホステスが楊枝ようじに刺した果物をその中に放り込んでいた。肩ほどのショートヘアにふっくらとした頬。どう見ても、高校生くらいにしか見えなかった。

「あの人も、ご執心な一人?」

峰岸が小声で聞いた。

「ほとんど毎日よ」

さやかはそう言いながら、メンソールのロングスリムをカラフルにペインティングされた長い爪の中でもてあそんだ。

「どこかの偉いさん? そんな風に見えるな」

峰岸にとってそれは危険と隣り合わせの質問だった。

さやかは人差し指を顎に置き、小首を傾げて口を閉じた。ちらっと左右に視線を送ってからウーロン茶をごくんと飲み干した。

「なんかね、台湾の人だって。いつも愛ちゃんをご贔屓なの」

峰岸は、その男にすぐには目を向けなかった。鼓動が激しく鳴るのを目の前のホステスに気づかれやしないかと思い、グラスの氷をわざと強く振った。

◇  ◇  ◇

👇続きはこちらで👇
ZERO〈上〉

紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから


でんぽんフェス2024 WINTER開催中!