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タイで生まれた気づきの瞑想「チャルーン・サティ」とは? #1 悟らなくたって、いいじゃないか

近年、瞑想やマインドフルネスがブームになったこともあり、仏教への注目度が高まっています。しかし、私たち「普通の人」は、欲望を捨て出家したり、修行して悟りを得たりしたいわけではない。そんな「普通の人」に、ブッダの教えはどう役立つのでしょうか?

その答えへと導いてくれるのが、タイで30年近く出家生活を送る日本人僧侶、プラユキ・ナラテボーさんと、気鋭の仏教研究者、魚川祐司さんの対話集『悟らなくたって、いいじゃないか――普通の人のための仏教・瞑想入門』です。一部を抜粋してご紹介しましょう。

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目を閉じて座るだけが瞑想じゃない


魚川
 プラユキ先生がスカトー寺で主に教えている瞑想は、序章でもふれた「チャルーン・サティ」ですね。手を動かす瞑想というのはなかなか珍しいと思うのですが、これについて、ちょっとご説明をいただけますか。

プラユキ はい。最初に名称について申し上げておきますと、「チャルーン・サティ」というのは、タイで「気づきの瞑想/気づきの開発法」と呼ばれる瞑想法の総称です。

これには歩きながらするものや、指先をこするものなど、色々な種類があるのですが、その中でとくに手の動きを使った手動瞑想(ヨックムー・サーンチャンワ)が気づきやすさの点でお勧めなので、私はこれを「チャルーン・サティ」の中心に据えて教えています。


具体的なやり方は、手の移動が十四カ所ありますので、上の連続写真を見ていただくのが早いでしょう。また、YouTubeには私自身が解説する、チャルーン・サティの実演動画もあります(「プラユキ・ナラテボー師 瞑想実践」)。

実践するうえでの注意点は?


魚川 手を十四カ所に動かすと言われると、ちょっとややこしい感じもしますが、動作自体は単純なので、写真や動画を見て五分くらいやってみれば、すぐ覚えてしまいますね。実践する上で、何か注意点はありますか?

プラユキ そうですね。動画でも言っていますが、とりあえず三点ほど。
 
一、瞑想をはじめる際の態度としてまず、心に構えを作らない

「雑念を起こしてはいけない」とか、「無にならなければ」とか、そういった「心のあるべき状態や向かうべき方向」を最初から定めたりすることなく、リラックスしてオープンハートでやりましょう。
 
二、意識の目で手の「位置確認」をする

写真にあるように、手は十四カ所を移動していくわけですが、そのそれぞれのポイントで、「パッ」「パッ」と手の位置に気づいていきます。

「手を挙げる」「降ろす」といったような言葉による「ラベリング」は要りませんし、皮膚の接触など細かい身体感覚に注意を研ぎ澄ます必要もありません。あくまで手を気づきのマークとみなして、手の「位置確認」だけをしていきましょう。
 
三、「雑念」を否定しない

瞑想をしていると様々な思念、言わば「心のおしゃべり」が、必ず生じてきます。

しかし、それも「こんなことを考えてはいけない」と否定するのではなくて、何が起こってきても「オッケー」という態度で、受け止めてあげてください。それから、また淡々と手の動きへと気づきを戻していけばよいのです。
 
魚川 なるほど。写真では椅子に座られていますが、坐禅のように床に座ってやってもいいんですよね?
 
プラユキ もちろん構いません。結跏趺坐でも半跏趺坐でも、あるいは安座でも、自分がリラックスできて座りやすい姿勢であれば結構です。ただ、背筋はなるべく伸ばすようにしましょう。
 
瞑想中に身体に痛みや痒みを感じたら、それを少し感じ取っていただいた上で、足を組み替えたり身体を搔くなりして、不快感の軽減をはかっていただいて構いません。その際、痛みや痒みが薄れ、消えていくプロセスをあるがままに観察していきます。
 
魚川 あと、目は閉じないでやるんですね?
 
プラユキ はい、そうですね。これも一つの対象に集中し過ぎずに、起こる現象全てに対してオープンであるという、この瞑想の基本スタンスに関わっていることです。

チャルーン・サティで大切なのは、「いま・ここ」に生じてくる現象がどんなものであれ、それに開かれ、「オッケーよ~」という態度で受容し、あるがままの事実についての理解を深めていくことです。

手を動かして、その位置確認をしていくのは、そういう「いま・ここ」空間を見失わないための、目印のようなものなんですよ。過度に集中するためではありません。

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連載はこちら↓
悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門


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