神の手(上) #3
1 二十一歳の安楽死
末期がん患者の病室には、特有のにおいが漂っている。
死臭を先取りしたような、甘酸っぱく、饐えたにおい。それは、全身に広がったがん細胞からにじみ出る独特の臭気である。若い患者のそれは、旺盛な身体の代謝や髪の汗と混じり、ことさら濃密になる。
古林章太郎。二十一歳、肛門がん、末期。
部屋の明かりを常夜灯だけにしているのは、本人がそう望んだからだ。彼には蛍光灯の光さえ、耐えがたいようだった。
主治医の白川泰生は、ベッドの傍らに立ち、じっと章太郎を見おろしていた。
これまで一日たりとも途切れることのなかった苦痛。鎮痛剤も鎮静剤も、麻薬さえも使い尽くし、それでも抑えることのできなかった痛み。がんは会陰部で潰瘍状になり、ガーゼを替えるたびに千本の針を突き刺すような痛みを引き起こした。リンパ節への転移は腹に食いつき、灼けた鉄を押し当てるような疼きをもたらした。さらに、ふいに突き上げてくる吐き気。身体をねじ切るような空えずき。胸水で溺死しそうな呼吸困難。ウジ虫のように全身を蝕む身の置き所のないだるさ。
この苦しみに耐える意味はない。それは、医師として二十五年間、がん医療に携わってきた白川の確信だった。
くっ……、っ……。
章太郎が声を立てずに喘ぐ。数日前から徹夜で付き添っていた古林晶子が、白髪の目立つうなじを震わせる。
「章ちゃん、しっかり!」
この期に及んでなお、思いとは逆の声をかけてしまうのは、やはり断ちがたい愛情の故か。息子同然にして育てた青年が、一カ月以上も苦しみ、のたうちまわっている。命が延びればそれだけ苦しみも延びる、だから早く終わらせてほしいと望んだのに、まだ「しっかり!」と励ましてしまう。
白川は黙ったまま、ベッドサイドに置かれた心電図を見つめた。さっきまで一二〇を越えていた脈拍は、今は二〇台に落ちている。呼吸はほぼ止まっている。それでもときおり、酸素を求める鯉のように、下顎を突き出すのは、この世にとどまろうとする命の最後のあがきか。
晶子が片手で自分の口元を押さえ、もう片方で章太郎の手を握る。はだけた胸に旺盛な筋肉が息づいている。太陽の下で若さを謳歌してよいはずの胸が、今、薄暗い病室で、最後の動きを終えようとしている。血圧は下がり、脈は触れない。
白川は心電図をじっと見た。黄緑色の輝線が、のたうつような波になっている。消えようとする命の、静かで悲しい最後の営み。それが徐々に間遠になり、小さくなる。晶子がそれを食い入るように見つめている。
何も言えない。苦しみを止めるために、自分の手で命を終わらせること。それがよかったのか、悪かったのか。いや、ぜったいに、よかったはずだ。
やがて、心電図が完全な直線になった。納得ずくとはいえ、白川は晶子の手前、型通りに死亡の確認を行う。瞳孔の散大、呼吸の停止、心臓の停止。腕時計にちらと目をやり、頭を垂れる。
「午後十時四十分。ご臨終です」
さすがに、晶子は泣き崩れたりはしない。ただ黙って頭を下げる。床に数滴、涙が散った。
白川は全開で落としていたケタラールの点滴を止め、患者衣の前をそっと合わせた。あとは看護師がきれいにしてくれるだろう。
静かに横たわる章太郎を見つめたまま、白川はだれに言うともなくつぶやいた。
「康代さんは、とうとう来ませんでしたね」
若い患者のがんは酷い。
章太郎が肛門に違和感を覚えて、近くの開業医に行ったのは、今から半年ほど前だった。開業医は診察したあと、すぐに総合病院へ行くように勧めたという。
章太郎が受診したのは、京都市下京区の市立京洛病院だった。診察は外科部長の白川が担当した。
「ちょっと厄介な痔だと聞いてるんですが」
開業医の言葉を不安げに伝える章太郎に、白川はむずかしい顔で説明した。
「しこりができてるね。いわゆる腫瘍だけれど、良性か悪性かは検査してみないとわからない」
ゴム手袋の指で触った感じは、明らかに悪性だったが、悪い報せは少しでも遅いほうがいい。
一週間後に返ってきた生検の結果は、やはりがんで、すぐに手術が必要だった。
手術の説明のとき、同席したのは伯母の晶子だった。母親の康代は、エッセイストとのことだが、いろいろな事情があり、小さいころから晶子が章太郎の親代わりだったらしい。
「残念ながら、検査の結果、悪い細胞が出ました。でも、手術は可能だから、あきらめる必要はありません。ただし、少し進行していますから、手術のあとに放射線治療が必要になるけれど」
白川は相手のようすを見つつ、できるだけ穏やかに説明した。章太郎は一瞬、息を詰め、寂しげな表情を浮かべた。ふーん、やっぱり、というような、子どものころから不運に慣れた人間の目だ。そして、取り乱すことなく訊ねた。
「助かる見込みは、どれくらいですか」
「さあ、なんとも言えないな。まあ、五分五分……」
それは言葉の綾だ。実際は二割にも満たない。章太郎はそれを見抜いたように、白川を正面から見つめて言った。
「もし助からないのなら、苦しまないようにしてくださいね」
若いのになぜそんな先を見越したようなことを言うのか。白川は訝ったが、章太郎には妙に老成したところがあった。
手術は五月一日、ゴールデンウィークのど真ん中に行われた。病気に連休もへったくれもない。術式は会陰全摘術。肛門だけでなく、直腸と周辺のリンパ節をすべて摘出し、人工肛門を造設する大がかりなものだった。
手術は成功したが、そのあとの放射線治療が事態を悪化させた。手術で取り切れなかったがん細胞を少しでも叩こうと、線量を上げたのが裏目に出たのだ。放射線で組織が壊死して、手術の傷が開き、溶けた組織が外に流れ出た。炎症が悪化して、会陰部にテニスボールほどの穴が開いたままになってしまった。
その後も事態は好転しなかった。手術から二カ月で骨に転移し、脊髄神経を圧迫した。これが腰と右脚に耐えがたい痛みを引き起こし、さらには腹部のリンパ腺に転移したがんが、灼熱感を伴う痛みで章太郎を苦しめた。通常の痛み止めはまったく効かず、白川は迷うことなくモルヒネを使った。はじめは錠剤、続いて皮下注射、筋肉注射、ついには点滴で二十四時間投与したが、それでも効果は不十分だった。逆に麻薬の副作用で、猛烈な吐き気が出て、章太郎は絶え間ない空えずきに苦しんだ。
見るに堪えない状況に、白川は焦り、悩んだ。全身に脂汗を流し、一息ごとに激しく喘ぐ章太郎に、白川は訊ねた。
「古林君。麻薬で痛みを抑えるのはこれが限界だ。あとできるとすれば、強い鎮静剤で意識を取ることだけど、どうする」
「お願い、します。もう、……この、痛みは、我慢……、できない」
目を大きく見開いて、必死にうなずく章太郎は、まるでライオンに食い殺されかけている草食動物のようだった。
白川はできるだけ副作用の少ない鎮静剤をと考えたが、苦痛が強すぎて、どれを使っても意識が取れない。唯一、有効だったのが、ケタラールという古いタイプの薬剤だった。しかし、この薬は過剰投与で呼吸抑制が起こる。点滴の量を増やすと、呼吸が止まるのだ。かといって量が少ないと意識が取れず、苦しげなうめき声が洩れてしまう。
「先生、なんとかこの子を眠らせてやってください」
付き添っていた伯母の晶子が、すがるように言った。
「でも、あまり薬を増やすと、息が止まるんですよ」
「かまいませんから!」
とても冷静な言葉とは思えなかった。手塩にかけた甥が、目の前で苦しみ続けるのを見れば、それも当然かもしれない。
白川は章太郎の右の鎖骨の下に入れた点滴を、恨めしげに見つめた。この中心静脈栄養のおかげで、章太郎は絶食なのに十分なカロリーと水分が補給される。若くて強い心臓は、なかなかへばらない。だから想像を絶するような苦痛だけが、いつまでも引き延ばされる。
できるだけ意識を落として、呼吸が保たれるぎりぎりの調節で、白川はケタラールの点滴を続けた。それでも章太郎はうわごとのように声をあげる。
「助けて」「苦しい」「なんとかして」「あーっ」
薄暗い病室に、苦悶の声が洩れる。しかし、呼吸を考えると、それ以上ケタラールを増やせない。その状態が三週間続き、見かねた晶子が、ついに白川に訴えた。
「先生、もうだめ。お願いですから、どうか、あれを」
口に出して言えない「あれ」が、何を意味するのか、白川には痛いほどわかった。
◇ ◇ ◇