命がけで戦うしかない…戦国最後の覇者を描き切った「大河歴史小説」 #5 家康(一)信長との同盟
桶狭間の敗戦を機に、松平元康(のちの家康)は葛藤の末、信長と同盟を結ぶ。単なる領地争いの時代が終わったことを知った元康は、三河一国を領し、欣求浄土の理想を掲げ、平安の世を目指すが……。信長でも秀吉でもなく、なぜ家康が戦国最後の覇者となれたのか? その真実に迫った、安部龍太郎さんの大河歴史小説『家康』(全6巻)。その記念すべき幕開けとなる『家康(一) 信長との同盟』のためし読みをお楽しみください。
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永禄三年(一五六〇)五月十二日、今川義元は二万五千の兵をひきいて駿府を発った。
この日は藤枝、十三日は掛川、十四日は曳馬(浜松)、十五日は吉田、十六日に岡崎、十七日は池鯉鮒に宿営すると定めている。
途中で合流する遠江や三河の軍勢を合わせれば、総勢四万にのぼる大軍だった。
松平元康は三百の手勢と千五百にのぼる人質衆の軍勢をひきい、馬廻り衆として義元本陣の先頭を進んでいた。
義元から拝領した紅糸威の腹巻をつけて筋兜をかぶり、連銭葦毛の馬にまたがっている。
総勢千八百となった手勢の先陣を酒井忠次がつとめ、三ツ葉葵の旗を高々とかかげて二百の松平勢をひきいている。
その後ろを赤鳥の旗をかかげた元康が進み、鳥居元忠がひきいる百騎がまわりを固めていた。
最後は石川数正と平岩親吉が指揮する人質衆が、それぞれの家の旗をかかげ、二列になって整然と行軍している。
家の体面をかけてきらびやかな装いをした人質衆の軍勢はひときわ華やかで、沿道や安倍川の河原に集まった群衆の目を驚かすに充分だった。
それをひきいる元康への注目が集まるのは必至である。
それゆえ忠次らは新しくあつらえた金陀美塗の具足を着用するように勧めたが、
「赤鳥の旗には紅糸威がよく似合う。その方が義元公もお喜びになろう」
元康はそう言い張り、応じようとはしなかった。
梅雨が上がり、空はおだやかに晴れている。賤機山は鮮やかな緑に包まれ、浅間神社の朱塗りの塀がひときわ引き立っていた。
(どうかお守り下さい。手柄を立てさせて下さい)
元康は遠くから社殿をのぞみながら、心の中で祈りをささげた。
安倍川にかけられた船橋を渡り、その日の夕方には藤枝宿に着いた。
義元は徳一色城(田中城)を宿所とし、配下の将兵は城下の旅籠や民家に分宿する。足軽、雑兵の多くは野宿だった。
翌朝卯の刻(午前六時)に出発、夕方申の刻(午後四時)に掛川城に入城。
さらに翌日も卯の刻に出て申の刻には曳馬城(後の浜松城)着と、行軍は判で押したように規則正しかった。
曳馬城は浜名湖の東方二里半(約十キロ)に位置する平城である。
さらに二里(約八キロ)ほど東には天竜川が流れ、天然の要害をなしている。南には東海道が通り、その向こうには遠州灘が広がっていた。
元康は宿所である二の丸御殿に入ると、酒井忠次を呼んだ。
「今日のうちに水野信近どのが着かれるはずだ。大手門を通してもらえぬおそれがあるので、そちが行って見張っていてくれ」
本来なら忠次に頼むような仕事ではない。だが水野信元の返事に家の命運がかかっているので、万全を期しておきたかった。
知らせを待つ間、元康はじっとしていられなかった。もう来るか、知らせはまだかと、席を立ったり歩き回ったりしている。
我知らず左手の親指の爪をかむのは、子供の頃からの癖だった。
(伯父上は何をしておられるのだ。九日に駿府を出たのだから、今日には曳馬に着くはずではないか)
城門は酉の刻(午後六時)に閉ざされ、それ以降は何人たりとも通ることは許されない。時間は刻々と過ぎていくだけに気が気ではなかった。
(まさか、信元どのは……)
和議に応じないのではあるまいか。そんな不安が胸をよぎり、背筋に鳥肌が立った。
もしそんなことになったら、元康の信用は地に落ちる。手柄を立てるどころか、使い捨ての死に番にされかねない。
泡のように次から次へわき上がる不安に追い詰められていると、忠次が床板を音高く踏み鳴らしてもどってきた。
「殿、水野信近さまが参られましたぞ」
「さようか。ここに通せ」
「そのように申し上げましたが、奥に入るのは恐れ多いと対面所でお待ちでございます」
「そのような遠慮など」
する必要はないのだと、元康は苛立ちに気を荒立てて対面所へ急いだ。
信近は羽織に裁っ着け袴という出立ちで対面所の廻り縁に座っていた。全身ずぶ濡れで膝から下は泥だらけだった。
「そのお姿は、いかがなされた」
「浜名湖を過ぎたあたりで急な通り雨にあってな。御殿を汚してはならぬと、軒下に控えておる」
「面妖な。こちらは暑いほどの晴天でございましたが」
「このあたりは時々こういうことがある。海から湿った風が吹きつけるせいであろう」
これを地元では遠州しぐれと言うと、信近は悠然と構えていた。
「して、下野守どのは何と」
「義元公が刈谷城の領有をお認め下さるなら、当方に異存はない。和議に応じ、お身方申し上げるとのことじゃ」
「書状は、義元公への書状は持参しておられましょうな」
「むろん、この通り」
信近が油紙に厳重に包んだ書状を懐から取り出した。
「ご出陣はいつになりましょうか」
「十七日には池鯉鮒城に着くはずだ」
「人数は」
「多くて千五百、少なくても一千は下らぬであろう」
「ご苦労でした。これで水野家の安泰も保てましょう」
元康は信近を連れ、本丸御殿に今川義元をたずねた。
信近の袴の汚れをはばかり、中庭に平伏して結果を告げた。
義元は水野信元の書状に目を通してから、
「役目、大儀であった」
形だけのねぎらいの言葉をかけた。
「水野下野守どのは、一千をこえる手勢をひきいて池鯉鮒に参陣されるそうでございます」
元康は勇んで告げた。
「早くそうするべきだったのだ。勇名とどろく下野守ゆえ、参陣を待たせた借りは戦場で返してくれるものと期待しておる」
その申し付けと参陣を認める義元の書状を持ち、信近は緒川城に取って返した。
翌朝も卯の刻に出発、夕方申の刻に吉田城(愛知県豊橋市)に着いた。
行軍の途中に各地の土豪や地侍たちが手勢をひきいて加わり、総勢は三万五千を超えている。それでも隊列を乱すことなく、予定の行程を狂いなくこなすのだから、今川家の統率力は見事なものだった。
翌十六日の夕方には岡崎城に着いた。
元康の父祖の地、三河松平家の主城である。
城は三河北東部の山々と、南西部に広がる平野の間に位置している。南に乙川、西に矢作川が流れる要害の地だった。
沿道には松平家の家臣たちが戦仕度をして出迎えている。
乙川の河原から大手門まで、二千人ちかい面々が期待と喜びに満ちた目で馬上の元康を見上げていた。
いずれも日に焼けた百姓面をしているのは、貧しい暮らしを支えるために田畑仕事をしているからだ。
鎧も兜もつくろい直した古いものだが、腰にさした刀は手入れの行き届いた使い勝手の良さそうなものばかりである。
日々の鍛練をおこたっていないことは、頬の削げ落ちた精悍な面構えや、肩口や二の腕の肉付きを見ただけで分かった。
大手門に近付くと顔を見知っている重臣たちが居並んでいた。
石川、酒井、大久保、本多など、後に三河譜代と呼ばれる家の面々が、いつでもお供をつかまつると言わんばかりに槍を手にして待ち受けている。
融通のきかない強情そうな顔に、かすかに不信と不満の色を浮かべているのは、元康が赤鳥の旗をかかげ、紅糸威の鎧を着ているからだった。
丑寅(北東)の方角に開けた大手門から城に入ると、今川義元は本丸御殿を、元康は他の重臣たちとともに二の丸御殿を宿所とした。
すぐにも岡崎在住の家臣たちを呼んでねぎらいの言葉をかけてやりたいが、大勢を二の丸に入れることは許されていない。
自分の城でありながら、今は今川家の城代たちに支配されているので、彼らの許可なく勝手なことをすることはできなかった。
元康はやむなく一門、重臣を菅生曲輪に集めて対面することにした。
南を流れる乙川の氾濫にそなえて高い堤防をめぐらした日当たりの悪い曲輪に、二百人ばかりの重臣たちが整然と隊列を組んでいた。
紅糸威の腹巻をつけた元康は、番所の廻り縁に上がって皆の前に姿をさらした。
「ただ今もどった。俺の留守中、城と領地を守ってくれた皆の働きに感謝する。この通りだ」
言うなり深々と頭を下げた。
それに応じて半数近くがあわてて頭を下げたが、底光りのする鋭い目を向けたままの者たちも多かった。
「出陣のいきさつについては、酒井忠次が報告する。たずねたいことがある者は、充分に話を聞いてから申し述べるがよい」
「それでは僭越ながら」
黒糸威の腹巻をつけた忠次が廻り縁に上がり、出陣にあたって馬廻り衆に取り立てられ、赤鳥の旗をさずけられたいきさつを語った。
「ご覧の通り、三河、遠江の人質衆千五百ばかりも預けられております。総勢千八百は馬廻り衆の中ではもっとも多い人数であり、今川家における殿のお立場を示すものでございます」
「その人質衆はどうなされる。大高城まで引きつれて行かれるのでござるか」
本多忠真が律義に手を挙げてたずねた。
松平家譜代の家臣で、槍の名手として駿府まで名がとどろいている剛の者だった。
「そうではございません。人質衆は池鯉鮒城に留めおかれるそうでございます」
「ならば大高城には、我らの手勢だけで向かうのでござるな」
「身軽になって有り難いと、殿もおおせでございます」
「その時も、赤鳥の旗をかかげて行軍なされるおつもりか」
じろりと怖い目を向けて口をはさんだのは、鳥居元忠の父伊賀守忠吉だった。
すでに還暦を間近にした老武者だが、戦場に出れば息子の元忠が遠く及ばぬ働きをする。忠義一徹、正直一途の宿老で、三河武士の鑑と称されていた。
「出陣に際して今川義元公からさずけていただいた旗でござる。あだやおろそかにはできません」
「かかげる、ということじゃな」
「さよう。おおせの通りでござる」
忠吉の威勢に気圧されながらも、忠次は言うべきことははっきりと告げた。
「殿、それでよろしいのでござるか」
三河武士の誇りはどうしたのだと、忠吉が言いかけた時、
「伊賀守どの、控えられよ」
もう一人の宿老である酒井将監忠尚が制した。
「殿は義元公の馬廻り衆に取り立てられたのじゃ。赤鳥の旗をかかげるのは当然ではないか」
「今川家の重臣という扱いでは、この戦に勝っても殿が三河におもどりになることはできまい。大高城や鳴海城に行けと言われても、拒むことはできないのでござるぞ」
「そんなことは戦に勝ってから考えれば良いのじゃ。どんな旗をかかげていようと、めざましい働きさえすれば我らの覚悟は天に通じる。義元公もご照覧くださるであろう」
忠尚は三河上野城主で、忠次の叔父にあたる。
忠吉より五つほど年下だが、酒井家と松平家は祖を同じくしているので、尊大な物言いをしてはばからなかった。
「お二人はこのようにおおせですが、殿のお考えはいかがでございましょうか」
二人の口論が激化するのをさけようと、忠次がすかさず間に入った。
「忠吉が案ずるのはもっともじゃ。しかし忠尚が言うように、義元公の御意には従わねばならぬ」
だから今川家の重臣として戦うしかないと、元康は腹をすえていた。
「そちは必ず三河一国を差配する武将になると、義元公はおおせられた。そのお言葉を信じて、命がけで戦うしかあるまい」
これを聞いた家臣たちは、歓声を上げ肩を叩き合って喜んだ。
三河の回復は松平家の悲願である。
清康、広忠と二代の主君が不慮の死をとげても、その日がやって来ることを信じて皆が苦難に耐えつづけた。
(元康という主君を得て、願いを果たす日が目前に迫っている)
誰もがそんな期待に目を輝かせていた。
「殿、それでは我が甥の参陣をお許し下され」
本多忠真が鎧姿の大柄の少年をともなって進み出た。
幼名鍋之助。後に徳川四天王と称される本多忠勝で、数え歳十三。まだ元服もとげていなかった。
「ならばわしの養い子も」
忠尚が急に思い出したように、家臣の中から平服の少年を引き出してきた。
「榊原小平太と申す。まだ体が出来ておらぬゆえ、戦場働きは無理でござるが、お側においていただければ必ずお役に立ちまする」
鍋之助と同い年のきゃしゃな少年は、後の榊原康政。やはり四天王と称されるようになる逸材だった。
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