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過度の集中、ラベリング技法…瞑想ビギナーが陥りがちな落とし穴 #2 悟らなくたって、いいじゃないか

近年、瞑想やマインドフルネスがブームになったこともあり、仏教への注目度が高まっています。しかし、私たち「普通の人」は、欲望を捨て出家したり、修行して悟りを得たりしたいわけではない。そんな「普通の人」に、ブッダの教えはどう役立つのでしょうか?

その答えへと導いてくれるのが、タイで30年近く出家生活を送る日本人僧侶、プラユキ・ナラテボーさんと、気鋭の仏教研究者、魚川祐司さんの対話集『悟らなくたって、いいじゃないか――普通の人のための仏教・瞑想入門』です。一部を抜粋してご紹介しましょう。

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「過度の集中」が心身のバランスを壊す


魚川 まず気になるのは、やはり「瞑想難民」問題ですね。「自分の日常生活を少しでもよくしたい(物語の世界の中で適切な機能を果たしたい)」と思って瞑想をはじめた人が、そうすることでむしろ苦しみを抱えてしまって、プラユキ先生のところに流れつくという。

これは、先生がご自身でも経験された、「集中系」の瞑想の問題点と深く関わっていると思うのですが、いかがでしょうか?

プラユキ そうですね。「幸福になるために瞑想をはじめたはずなのに、かえって苦しみが増えてしまった気がするのだけど、どうしたらいいでしょうか」と言う人が、私の瞑想会や面談会にいらっしゃることはよくあります。

そういう方々を見ていると、やはり「過度の集中」が、身心のバランスを崩す主要因になっているように思われる。
 
過集中の問題については前章でも指摘しましたけれども、一つにはやはり「スピード」が遅れること。

つまり、集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つものですから、そこにハマってしまうと、イキイキとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われてしまう
 
そして、この集中によるデフォルメされた認知から派生するもう一つの大きな問題は、それが心理学で言うところの「解離」の症状や、「回避」の行動をもたらすことです。

私が蚊に刺された痒みが全く平気になるようなトランス状態に入ったのに、にもかかわらず村の騒音にどんどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の感情を抱くようになるんですね。
 
実際、私がお話しした「瞑想難民」の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。

ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者によっては、そういう状態を「瞑想が進んでいる証」として、肯定してしまったりするわけです。

それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに状況を悪化させていくというスパイラルに落ちていく。

「ラベリング技法」の何が問題なのか?


魚川 なるほど。「現実をありのままに見る(如実知見する)」はずの瞑想が、過度の集中によって、むしろ日常的な現実の否認に繋がってしまうわけですね。

この「解離」や「回避」の症状については、ウィパッサナー瞑想においてしばしば推奨される、「言語によるラベリング」という技法の問題点も、プラユキ先生は指摘されていましたね。

プラユキ 痛みを感じたら「痛み、痛み」、怒りを感じたら「怒り、怒り」などと、生じてきた感覚に言葉でペタペタとラベルを貼っていく(ラベリングする)瞑想技法のことね。

もちろん、この瞑想技法で効果を上げている人もたくさんいるから、それを否定するつもりはありません。ただ、私のところに、このラベリング瞑想をすることで身心の調子を崩してしまった方が、少なからず相談にいらしているのは事実です。
 
なぜ問題が生じてしまうのかというと、一般に私たちにとって言葉というのが、単なる記号表現である「シニフィアン」(“ネ・コ”という音の連鎖や文字の集まり)としてだけではなくて、記号内容であるところの「シニフィエ」(“ネコ”という音声や文字から浮かぶイメージや概念)と分かち難く結びついた、「シーニュ(記号)」(シニフィアンとシニフィエの複合体)として用いられるものだからです。
 
つまり、多くの人にとって、シニフィアンは発話された時点でシニフィエを巻き込んで認知されるわけですね。

例えば、「怒り」というシニフィアンを「ラベル」として心の中でも発話すれば、同時に腹立たしい感情にまつわる記憶イメージといったようなシニフィエが、喚起されることは自然であるわけです。

そうすると、怒りに囚われたくないからラベリング瞑想をしているのに、「怒り、怒り」と心の中で繰り返せば繰り返すほど、ますます憎悪の感情や立腹した記憶などが、心に満ちてくることも起こり得る。

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悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門


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