自分が料理人になっている姿が見えたとき「絶対にいける」と思った #1 本日も、満席御礼。
登録者数40万人超の人気料理チャンネル、『鳥羽周作のシズるチャンネル』でおなじみの鳥羽周作さん。『本日も、満席御礼。』は、スターシェフへ登りつめた鳥羽さんの意外すぎる経歴や人生哲学、成功の秘密が明かされる初めての本。豪快な笑顔の裏に隠された、プロの魂に感動すること間違いなしの本書より、一部を抜粋します。
* * *
情熱をぶつける対象が見つかった
代官山に「ディエゴ」というカフェがありました。
マラドーナ好きのオーナーがやっていたカフェなのですが、僕は学校の先生を辞めると、次の日からいきなりそこで働き始めました。社会人サッカーはとりあえず続けながら代官山のカフェで働く。そんな生活が始まりました。
ただ、カフェはすごく忙しかったので、結局サッカーにはまったく行けなくなりました。そのとき「ああ、もうサッカーは潮時だな」と明確に思ったんです。サッカーをスッパリやめて、完全にカフェで料理をして生きていこうと決めました。
働き始めてすぐに思ったのが「料理は天職だ」ということでした。これなら絶対にやり切れる。その思いはすぐに確信に変わりました。その日から、ほぼ24時間365日、料理のことを考える人生が始まったんです。
カフェ時代は、家でも毎日ケーキを焼いていました。ケーキをある程度攻略したら、次はオムレツです。毎日家でオムレツを20個くらい焼くようになりました。
あるとき親から「いつまでオムレツ焼いてるんだ。いいかげんにしろ。外でやれ!」と言われたんです。僕は生卵を200個くらい買い込んで、伊豆にある叔母さんの別荘に行きました。そこにこもって、ひとりでオムレツをつくる練習をひたすらやりました。
「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」など有名店のレシピ本を山ほど買い漁って、レシピどおりにひとつずつ片っ端からつくったりもしました。さらにネットでパスタのレシピを探して、そこに載っているパスタもぜんぶつくりました。
思えば小さいころから、料理へのこだわりは人一倍ありました。覚えているのは、中学の家庭科の授業でつくったミートソース。他のみんなは言われたとおりにつくっていましたが、僕は「ミートソースはもっと甘いほうがいい」と言って、勝手に味付けを変えていました。
大学時代のバイト先でつくった親子丼も、使う卵は2個と決まっているのに勝手に3個にしてつくったり、エビフライをつくるとき、誰よりも海老をきれいに伸ばして揚げたり。カレーも玉ねぎが飴色になるまでずっと炒めたりしていました。とにかくそういうこだわりが、めちゃくちゃあったんです。
僕はのめり込んだら、とことんやる性格です。というより、ハマりだしたら止まらない。気づけば、僕にとって料理こそが「サッカーと同じ熱量でできるもの」になっていました。情熱をぶつける対象が見つかった感覚でした。
具体的なイメージが浮かぶかどうか?
プロのサッカー選手になるために足りなかったもの。それは「より精密な解像度」だったのだと思います。
「プロのサッカー選手になりたい」というのと「バルセロナで10番になりたい」は違います。僕がサッカーをしていたとき「埼玉スタジアムで浦和レッズの8番として試合に出ている」という具体的なイメージなんて、まったく浮かんでいませんでした。
ふわっと「サッカー選手になりたい」というレベルだった。そこが、本当の一流になれなかった理由だと思っています。
「5年後にはこうなっている」といったビジョンもありませんでした。本当に夢を実現させたいなら「2年後に浦和レッズの8番になって、5年後に日本代表に選ばれる」といった明確なビジョンが必要です。でも、そこがずっとぼんやりしたままだったのです。
「料理でいくぞ」と思えた決め手は「自分が料理人として働いているイメージ」がハッキリと浮かんだことでした。コックコートを着て、厨房でパスタをつくっている姿が浮かんだ。
「こういう感じのお店で、こういう活躍をする」ということが、めちゃくちゃ鮮明に思い浮かんだんです。これはすごくデカいことでした。
自分が料理人になっている姿が見えたとき「絶対にいけるな」と思いました。なんとも言えない「選ばれた」感覚があったんです。「俺、選ばれたな」と思った。
それから先、料理を始めてからは「できない」と思ったことは一度もありません。それが27、28歳のとき。そのときに、明らかになにかが変わったんです。
「覚悟をもって努力をすれば絶対にいける」と思いました。
◇ ◇ ◇