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ZERO〈上〉 #3

近くの磯辺いそべ焼の屋台から流れてくる、醤油が焦げる香ばしい匂いが、後藤の嗅覚を刺激した。腹がくぐもった音をたてた。そういえば、今日一日、まともなメシをまだ食っていないことを後藤は思い出した。昼にJR新宿駅の構内で、立ち食いソバを腹に入れただけである。最近はいつもこうだ。一旦、そう思うと、後藤は、ラーメン屋や回転寿司のネオンがやたら気になりだした。視線を向けないようにしようと思っても、必ずそこへ目がいってしまう。バッティングセンターから聞こえてくる金属音に負けないくらい、腹が連続して鳴り響いた。気になるといえば、目の前を通り過ぎる、純白のダウンジャケットから覗くバドワイザーガール姿の女の子の脚と胸が常に視野の中でチラつくのも、二十九歳という若さの後藤には苦痛だった。

後藤はタバコに火をつけ、ニコチンの味を溢れる唾液の中で噛みしめた。煙とニコチンの感触が、空腹を一時的にも麻痺させてくれるということを、ここに配属されてから初めて知った。

それにしても、荷台の中に潜むあの大先輩は、いつメシを食っているんだろうか。それがいつも不思議だった。朝から行動を共にしているが、食欲という感覚を持たないマシンじゃないかと思う時もあった。

新しいタバコを揉み消す空間を灰皿の中で探していた峰岸のイヤホンに心地よい雑音が入った。

「5から1、ユウカ1イチ、徒歩で拠点Aを通過、方向、東、どうぞ──」

「1、ユウカ1、徒歩で拠点A通過、方向、東、了解」

新宿通りから区役所通りに曲がる拠点で風俗店員に偽変している、流動警戒員の冷静な声が聞こえた。

その視察対象者に〈ユウカ〉という符号を付けたのは、峰岸の部下にあたるアジア第1担当部門第2係〈視察・情報班〉の伊庭聡一いにわそういち巡査部長だった。贔屓ひいきにしている中国人パブで、伊庭の好みのホステスの源氏名から勝手にそう名づけた。

峰岸は目の前に貼り出された住宅地図を見上げた。

トラックの後方五十メートルで交差する区役所通り。ネオンの海を南へまっすぐ二百メートル、靖国通りへつながる歌舞伎町のど真ん中。人と車の洪水で埋まる風林会館前交差点信号に面した雑居ビル。四階の非常階段の窓。黒いビニールテープでカモフラージュされた、鉛筆の芯ほどの大きさの超小型CCDカメラが作動し始めた。

峰岸が見つめるディスプレイに、頭に焼きついた男の姿が人混みの中でちらちらと見えた。

「1から各局、視認可能な各局、応答せよ」

峰岸がプレストークで囁いた。

「4から1、ユウカ1視認中、拠点A通過、方向、東!」

無線交信の俊敏さは芸術的でさえあった。追及作業に携わる公安警察官は徹底的に無線取り扱い訓練を受けている。基本は、簡潔かつ明瞭めいりょう──それが求められるのだ。最近は特に、無線の使用について神経をすり減らすことが要求されている。問題は、極左暴力集団が、様々な警察無線を秘聴──それもスクランブルされた通信でさえも──していることを警戒しなければならないからだ。原則的に無線使用は禁ずる、という通達も一部では発信されていたが、峰岸にとっては、そんな通達などどうでもよかった。問題は、自分たちの“声”が録られ、ライブラリー化されることだ。もし、そのデータが外国の情報機関インテリジエンスに提供され、継続的に声紋が追跡されれば、作業ダマ(協力者として獲得・登録した情報提供者)の安全を脅かしかねない。この世界では、安全とは文字通り、生死を意味するのだ。

もう一つやっかいなことは、関東電波通信局から抗議が寄せられていたことだ。コールサインの使用については、必ず“正常な会話”を行なうように、常に抗議が殺到していた。

峰岸はタバコを床のゴムシートの上に落とし、靴底でもみ潰した。そして、“現場”から送られてくるライブ映像に視線を集中させた。

すっかり日も暮れた夜とはいいながら、ディスプレイは十分な明るさを保っている。リモコン操作を行ない光学モードでズームアップすると、顔貌がんぼうを鮮明にとらえることができた。これなら、すべての“客”を捉えることは十分に可能だ。その直後、例の男がレンズに入った。目的のビルに向けてあごを上げ、ネオンの間を彷徨さまよう顔貌まではっきりと判読できた。

「出るぞ」

峰岸は後藤にそう囁いて、コートを慌てて手に取り、トラックから飛び降りた。

「1から各局、1が拠点Aへ向かう。どうぞ──」

「2、1が拠点Aへ。了解」「3、了解」「4、了解」「5、了解」「6、了解」

静かに押し殺した声だが、連続する機敏な応答に、峰岸は興奮を覚えた。

峰岸の目の前にネオンの洪水が飛び込んだ。暗いところから明るい場所へ出て来たことでせわしくまばたきをした。峰岸が、UW101無線機メガマイクのプレストークボタンから指を離した時、後藤はすでに走りだしていた。目的の店がちょうど対面に見える位置──スナックが群居するビル一階の螺旋階段の裏側に隠れ、ゆったりとした足取りで追いついて来る峰岸を苛立いらだちながら待った。

後藤は吸いかけのタバコをチューインガムが黒く固まったタイル張りの床に投げ捨て、リーガルの紐靴のかかとで踏みつけた。ごろごろと風で飛んできた空のペットボトルを後藤は片足で乱暴に払った。

峰岸は目的のビルに辿り着いた時、視界の隅で四名の直近・防衛班の班員たちが人混みにまぎれているのを確認した。峰岸はベルト付近にさりげなく右手を置いた。

それは一瞬の動きだった。五本の指を素早く操り、四名それぞれに店内への進入時間、タイミング、進入順序について、無表情のままハンドサインだけで命令を送った。

そして最後に、峰岸は咳をこらえるような仕草で、手のひらに隠し持ったハンディマイクを口に近づけた。

「1から4と5、状況、知らせ、どうぞ」

「4から1、特異動向なし、どうぞ」「1、了解」

「重ねて、5から1、特異動向なし、どうぞ」「1、了解」

峰岸はイヤホンとハンディマイクを胸ポケットにしまい込んだ。目の前の雑居ビルをあらためて見上げた。一階は満員の回転寿司店、その上に、ファッションヘルス店の目がくらむような電飾看板が続いている。〈モンローウォーク〉は、そのさらに上、最上階の八階にあった。

奥のエレベータに向かって駆けだそうとした、その直後のことだった。

峰岸の足が止まった。

今のはいったい……。

ゆっくりと首を後ろに回した。

残像の中で、峰岸はある映像を急いで再生した。だが、歩道上には、相変わらず、押し出されるように人の群が続いている。

確かに、何かが、峰岸の網膜に引っかかったのだ。

それは一つの映像だった。

人混みの中で自分だけを見つめる異様な視線──。

歩道を横切る時、ふと横を見た、あの時だ。

記憶にあるのは男だということだ。

峰岸は誘われるように歩道に戻った。しかし、残像と一致するような姿は、もはやそこには存在しなかった。

後藤が引き返して来た。

「何か?」

「いや、何でもない」

エレベータに乗り込んで、白いボタンをゆっくりと押し込んだ時、峰岸の頭の中で、ぼやけていた映像が鮮明に蘇った。

まさか……監視されている? いや、現場に展開するこれだけの警戒員が〈ウシロ(裏追尾要員)〉に気がつかないはずはない。あの男をけている人間がいれば、その視線を持つ奴を捜せば必ず分かる。だが、もしその視線が自分に向けられていたとすれば……。まったく気にくわない話だ。この作業が誰かから、追尾されているなど考えたくもない。しかも、この土壇場で。

エレベータが昇って行く階を示す電光掲示の数字を後藤は息苦しさを感じながら見つめていた。峰岸は相変わらず余計な言葉を一切口に出さない。他の先輩なら、緊張する場面を迎えると、「後藤ちゃん」と声をかけてくれ、体に取りく重い空気を剥がしてくれるところだ。だが、峰岸は終始自分のペースだった。

エレベータの扉が開くと、すぐ目の前に、産業廃棄物業者の敷地に捨てられたような錆びた鉄の一枚ドアが張りついていた。快楽的な写真や文字はない。荒いペイント塗装で黒く被われたドアの真ん中に、涎を垂らして作ったような赤い店のロゴが無造作に記されているだけだった。

峰岸は非常階段の上下に忙しく目をやった。すでにビルの見取り図は頭に叩き込んである。下階には各ワンフロアごとに三つの風俗店が入居しているが、いずれも直近・防衛班員が固定警戒についている。屋上に出るためのドアは、事前に管理人を説得して施錠させていた。一階のエレベータ前にも、今頃、流動警戒班が集まっているだろう。完全な包囲網だった。

大きく息を吐き出した峰岸は、躊躇ちゅうちょなくドアノブに手を伸ばした。

◇  ◇  ◇

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