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言葉で自己を保つこと、人間存在を信じること

会社で、これは採用されないだろうな、という意見でもあえて言うようにしている。
自分は仕事ができない、弱いやつなので、そういう人の心に寄り添った意見を言う。実際、そういう人は職場には少数派なので、「優しいね」くらいの言葉で流れていく。

自分に言わせれば、自分が優しいのではなく、周りの人間が強すぎるために自分のような人間が感じる怖さとか、辛さのような感覚に距離があり、それゆえに優しいと感じるだけなのである。自分程度の持つ「優しさ」とやらが普通の社会であってほしいと思う。

大切なのは、自分の意見を言うだけで、それを採用させることは考えないことである。それをやると関係性が危うくなるばかりか、なにより自らのメンタルに返ってくる。実現したい理想と、現実のギャップに苦しめられることになる。
しかし、組織の決定は複数人の意見をもとになされるものであり、輪から離れた意見であるほど採用されにくい。にもかかわらず自分は意見を表明し続ける。それはなぜか。

一つに、自分の生き方の姿勢を集団の中に示すこと自体が、社会からの圧から自らを守る生存戦略であり、さらに社会変革を目論む行為だと考えていることがある。

人の言葉にはコンテクスト(文脈)がある。自分の意見を自分の言葉で伝えようとすることで、言外の生きる姿勢のようなものが伝わると思っている。それを他者がどのように感じるかはその人次第だが、何かを感じ取った時、それこそがある種の深層でのコミュニケーションの成立であり、最小規模の社会変革とも言えるだろう。それはつまり、誰かに感銘を与えるということである。
できることだけをやる、というのは、ここ数年で人にも自分にも言い聞かせ続けた言葉だ。つまり自分は、周りの人にとってよくわからない意見を言って、ただ流されることを繰り返している。
そして、自分自身もそれを分かっている。組織が大きく変わると思って言ったことなどない。というか、自分の意見ばかりが採用される社会(組織)もまた危険である(無気力な組織になって業務機能を失うだろう)。

その意味で、自分はこの言葉が人に届くと信じて発言していない。

しかし、その場にいる人は誰しも日々少しずつ変わり続ける存在である。その変化のきっかけに、変化した人の心に届く言葉に、なりはしないか。その可能性は常に開かれている。その意味で自分は人という存在そのものの可能性を信じているから、主張し続けられる。

社会人1,2年目の時、こんなふうに素直に自分の意見を表明することはできなかった。
それを遡って責める気は全くない。先に書いた通り、できる時にできることだけをやればいいのだ。

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