「成長」を考える:多様性に富んだ社会に向けてできること
前回の記事に続き、多様性について考えている。
現代社会は人の成長の方向性を定義し、その方向に駆り立てることで人を均質化しようとしているように見える。社会が健全であるためには、人々の特質の多様性が保たれている必要がある。
ここでの「多様性」とは、社会の視点から見た個人それぞれの個性や、考え方の違いを指す。
現代社会は、人々に多様性や個性を尊重する余裕を与えないほどに忙しい。資本主義社会は単に仕事の時間において人々を忙しくさせるだけでなく、余暇を主体的な成長のために使うよう促す。書店に数多くの自己啓発書が並んでいることがその代表例である。その本はほとんどの場合、いわゆる「社会人」としてどう成長し、どう成功するか、を語っている。これは、社会の中で他者よりも成長し、競争に勝利して成功しなければならない、という社会の発する強いメッセージである。
付け加えておくと、このメッセージの対象者は社会人のうち上位数%のエリート層に限らない。むしろ資本主義社会はその役割を果たすため、メッセージの対象者を拡大し続けていると考えるべきだろう。
つまり、この問題は想像以上に他人事ではなく、また自分事だけでもない。
当然無関係の人がいるだろうことも想像しつつ、一つの社会問題として指摘できる話題になりつつあるのではないか、と思う。
自分自身も社会人になってから世界史を学んでみたり、仕事に関連するような資格を取得した。その経験も踏まえて感じるのは、学び、知識をつけることは重要だが、真に重要なのはその目的なのだということだ。目的がお金や仕事のためになると自らの個性を薄め、社会全体の多様性をも乏しくする結果になるのではないか。
もう一つ自身の経験の話をすると、Twitter上では周りが努力し、社会的に成功した姿がよく見られる。自分が親しんでいないだけで、FacebookもInstagramもそうなのだろう。そういった情報に触れたとき、自分も成長と成功を求めて行動しなければならないと感じる。そうしなければ何かに取り残される気がする。日々の大部分を過ごす仕事の時間において、一切の承認欲求を満たせなくなるような感覚になる。
しかし、そこで社会の求める成長に飛びつくのが正しい選択なのか。
その時考えたのは「成長」の言葉の意味である。
この記事において指摘したい内容を端的に言うと、現代社会が私たちに促す「成長」と、本来の意味での「成長」は異なるのではないか。前者は、理想的な「成長」のベクトルが資本主義社会によって定められ、それが競争を引き起こす。それはさながら、資本主義社会という舞台の中で行われるゲームである。すなわち、その世界(社会)の中で勝者になったとしても、それはあくまでその世界(社会)における勝者にすぎない。私たちは仕事時間が終われば、プライベートな社会関係の中に移行する。実際のところ、私たちは複数の社会を横断しながら生きているのであり、そのことを忘れて一つの社会に執着することは、最終的に大きなリスクを請け負うことになるのではないか。
一方、後者の本来の意味での成長とは、日々の生活の中で自然に育まれるものであり、具体的な成長の中身について、社会に価値判断をされることがない。そこには役立つものもそうでないものも、「稼げる」ものもそうでないものも含まれる。「昨日できなかったことが今日できるようになった」といった自己を基準とした 成長こそが、それぞれの人々の個性であり、社会の多様性の源泉であると思う。
確かに資本主義社会のもたらす恩恵は大きいし、それから脱却して生きていくことは考えにくい。しかし、だからといって資本主義社会の圧力に屈して自らを捻じ曲げ、苦しみながら生きる必要はないはずだ。これだと何のための社会か分からない。人間のための社会という関係性であったはずが、気づけば反転して社会に人間が合わせて成り立つような構図になっている。
つまり、自分のような資本主義社会のメッセージがさっぱり肌に合わない人間にとって、現代社会の生き方として狙うべきは肯定(内面化)と反発のちょうど中間であり、よく言えば中庸、悪く言えば中途半端で曖昧なラインなのだろう。
そこに至るには、社会を知り、必要な場面で資本主義社会に抵抗を加えることが実践可能な試みではないかと考えている。
例えば、資本主義が作り出す「成長」のゲームには慎重に付き合うこと。ゲームに乗る時は、その構造を十分自覚した上であるように努めることである。それらを実践するためには社会を知るための座学的な、また実践的な学びが必要になる。
現代社会に抵抗を加えること、とは「資本主義社会の発するメッセージを受け止めつつ、ありのままの自分自身を保つこと」と言えるだろう。
仕事の中で求められる業務を遂行すること、そのために必要なスキルを体得することは生きる上で重要であることは言うまでもない。しかし、その結果自身の興味関心を追求する時間がなくなってしまえば、率直に言って生きる意味がわからなくなってしまう。
ここでポイントになるのは、資本主義社会から発せられる強烈なメッセージを「受け止めつつ」というところである。自分に都合の悪い言葉を理解し、心に留めておくことにはかなりの負担を伴う。
しかし、実践の価値はあると思う。この厳しい資本主義社会の勢いに飲み込まれず、疑問を持ち続け、各人の大切にするものを大切にし続けた人が増えていくといいと思う。その結果、より人々の個性が発揮され、より社会の多様性という彩りが鮮やかになるのではないか。そのために社会と自己の間に葛藤を抱えながら生きることこそが自分たちの手で社会を変えていく方法ではないかと思うのである。
(本記事は玄徳の主宰サークル「AsTobe」とのクロスポストです。)
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