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年末に変なものを見つけてしまって……
年末部屋を掃除してたら、ラメッシの本が出てきた。
読み出すと、止まらなくて(掃除はなんとか終わらせた)。
本の中のこれは、と思うものは、メモアプリ(ノートアプリ)にぶち込むという作業に現実逃避してしまって、どうしようない。それ以外、何もできなくて困り果てている。
取り敢えず、そんな現状をno+e へ
例によってノンデュアリティの系統のジャンル。
だが、一般人が考える、精神世界系の人ではない(ラメッシは)。リア充である。
最終的には銀行の頭取になって会社を成長させ、ゴルフの腕前もすごい!
ただ、12歳位から老子、荘子に惹かれ、自分の精神世界には興味があった人。ラマナ・マハルシのアシュラムに行きたいと思いながら職業生活が忙しく果たせず、銀行頭取を辞めた後にニサルガ・ダッタ・マハラジの講話に通うようになった。マハラジはマラティー語しか話せず、インドのムンバイのマハラジの講話に通う西洋人のために英語通訳をラメッシは徐々に務めるようになった。
で、マハラジの没する寸前にマハラジのもとで悟りを開いた人である。
かなり思索的なマハラジの本と違って、フランクな話し合い(質疑応答)をまとめた『意識は語る』から
タオの自然な流れ
質問者:
(私は自分のエゴが問題だとわかっています。でも私は、それをどこかへやることができないようです。)
ラメッシ:
あなたはエゴと闘うことはできません。 エゴを受け入れ、それを続けさせてください。この理解がしだいにあなたのエゴを押し出すでしょう。
ここでタオイストである楊朱(ようしゅ:中国の戦国時代の思想家)からの引用を読み上げましょう。それはほとんどの人たちをかなり驚かせるものです。彼も同じことを言います。心にはそれが考えたいことを考えさせなさい。もし心が心配しなければならないとすれば、それに心配させなさい。心が心配するのを止めようと努力することは、さらに巻き込まれることになるのです。(p149)
楊朱は言います。「耳にはそれが聞きたいことを聞かせ、目にはそれが見たいものを見させ、鼻にはそれが嗅ぎたいものを嗅がせ、口にはそれが話したいことを話させ、体にはそれが渇望するあらゆる快適さを得させ、心にはそれがしたいことをさせなさい。耳が音楽を聞きたいと思っているのに、耳からそれを奪うことは、聴覚を挫折させることになります。目の見たいものが肉体的美しさであるとき、それを奪うことは、視覚を挫折させることになります。鼻の渇望するものがハナミズキやランの芳香を嗅ぐことなのに、もしそれが得られなければ、嗅覚は挫折させられます。口の望むことが、何が真実で何が真実でないかを話すことなら、もしそれができないと、そのときには知識が挫折させられます。体が快適さのために望むことが、暖かさと良い食べ物であるとします。
これらの獲得を妨げるなら、人間にとって自然で本質的なものを挫折させてしまいます。心の望むことが好きなだけさ迷う自由であるとき、もしそれがこの自由をもたなければ、人間のまさに本質が制限させられ、妨げられます」
ラマナ・マハルシは訪問者たちが理解するように、「心を殺しなさい!」と言ったものです。「心を殺しなさい!」。しかし、彼はのちに「あなたは心を殺すことができない」とも説明しました。理解することだけが心を殺すことになるのです。エゴ、つまり心は自分自身を殺すことができません。エゴは自殺をしないものです。事実、エゴはあらゆる種類の障害を打ち立てるでしょう。エゴは「これはマスターが言っていることだが、その証拠はどこにあるのか?」とか、「究極の段階は私が好きになれる何かであると、どうして私は知ることができるだろうか? 私はそれを好きになれないかもしれない!」などと言います。エゴはあらゆる種類の障害を打ち立てるでしょう。
心を無力にし、その悪あがきの能力を無にするのは、外部の力だけです。そういった理解は心がもっている理解ではありません。心が蓄積している知識は現象の中に基盤があります。真の理解は外側から来ます。それは空間-時間の次元のものではありません。それゆえ、あなたはそれを恩寵と呼ぶことができます。(p150)そういった別の次元に対して、自分の存在をオープンで受容的にし続けることは、恩寵の問題です。太古から受け継がれている宗教的教義を放棄するのは、途方もない勇気が必要です。こういったたいていの教義は誤解釈です。 ですから、途方もない勇気が必要なのです。
もう一度言えば、恩寵、勇気等々はただの言葉にすぎませんが、時が熟せば、そこにあることを何であれ受容するために必要な勇気がやって来ます。私がたった今読んだ言葉は、もしそれがもう一人の別のタオイストの言葉、「耳で聞くことをやめ、考えるときに心を止めるように。 虚空の霊はあらゆるものを包み込み、ただタオだけが虚空を含む」と関連して考えられなければ、簡単に間違って解釈されてしまうかもしれません。
このすべてが意味することは、肉体と精神の働きは利己的ではありえないということです。感覚、感情と思考は、それらは自ずと調和的に秩序がとれるという信念のもとに、自然発生的であることが許されるべきです。心を強制的にコントロールすることは、板で波を平たくしようとするようなものです。それらはさらに混乱を起こす結果となるだけです。自分自身を統合しようとすることは、自分の肉体精神機構を独裁的政府の支配化に置こうとすることです。
バガヴァッド・ギーターの中でも述べられています。 「聖なるものと融合し、真実を知るものは、『すべてにおいて、私は何もしない』と考える。なぜなら、見ること、聞くこと、触ること、嗅ぐこと、味わうこと、歩くこと、眠ること、呼吸すること、話すこと、目を開けたり閉じたりすることの中で、彼は感覚だけが、感覚の対象物に専念していると考えるからである」(p151)
聖者ジニャーネシュワル(インドの聖賢詩人。一二七五~九六頃)はこう表現しました。「感覚はそれらの性質に従って、自分を満たす対象物のほうに向かっていくが、ほとんど同時にその経験は、自己覚醒した彼自身の本質とは異ならないという理解がある。それはちょうど、視覚が鏡を見るとほとんど同時に、そこにあるイメージは顔とは違わないという理解があるのと同じことだ」(p152)
2章 ラメッシ
ほとんどの人はチンプンカンプンだと思うけど、
「理解することだけが心(エゴ)を殺すことになるのです」ということを拾っていただければOK
個人的にノンデュアリティとは原始仏教以外の何ものでもないと思っている。
クリシュナムルティを読んでピンと来る人ならノンデュアリティも理解できるかもしれない
二十五 観念を伴わない行為について
質問
真理が出現するために、あなたは観念を伴わない行為を主張されています。常に観念を持たずにということは、目的を持たずに行動することはできるのでしょうか。
クリシュナムーティ
現在の私たちの行為とはどのようなものでしょうか。 また行為とはどういう意味でしょうか。私たちの行為つまり私たちがやりたいと思っていることや、こうありたいと思っていることは観念に基づいているのではないでしょうか。私たちが知っているのはこのことだけなのです。私たちは現在の私自身と、そうでない私について、様々な観念や理想や期待や、あるいはいろいろな信条を持っています。私たちの行為の根拠は、将来得られるであろう報酬か、そうでなければ罰に対する恐怖なのです。私たちはそのことをよく知っているのではないでしょうか。そういう行為は分離的であり自己閉鎖的です。あなたは徳についてある観念持っているとします。 そこでその観念に従ってあなたはいろいろな関係の中で生活し、行為するのです。あなたにとって、集団的及び個人的な関係は、理想や徳や成功などへ向かう行為なのです。
私の行為がある理想に基づいているとき──この理想は、「私は勇敢でなければならない」、「私はその見本に従わなければならない」、「私は慈悲深くしなければならない」、「私は社会的に自覚しなければいけない」というような観念です──その観念が私の行為を形づくり、導いていくのです。「徳のお手本があるので、それに従わなければならない」と私たちは言うのです。ということは、「私はそれに従って生きなければならない」という意味なのです。このように行為は観念に基づいています。この行為と観念の間には、亀裂や分離や時間の過程が存在しているのです。実際にその通りではないでしょうか。具体的な例をあげてみましょう。 私は慈悲深くもなく、情愛もなく、私の心には寛容さがありません。しかし私は慈悲深くしなければならないと感じているのです。そこで現在の私と、こうあるべきである私の間にギャップが生れるのです。 そして私たちは絶えずこのギャップに橋を渡そうとしているのです。これが私たちの行動ではないでしょうか。
ところで、もしこの観念が存在しないなら、どういうことになるでしょうか。 そのときあなたは、一瞬のうちにそのギャップを取り除いてしまったのではないでしょうか。あなたはあるがままのあなたになっているでしょう。 しかしあなたはこう言うのです。「私は醜い。だから美しくならなくてはならない。私はどうしたらいいのだろうか」と。これは観念に基づいた行為です。
あるいはあなたはこう言います。「私は同情的ではない。だから情け深くならなければならない」と。そこであなたは行為とは離れた観念を持ち込んでしまうのです。そういうわけで、あるがままのあなたの真の行為は決して生まれることがなく、常にあるであろうところのあなたの観念に基づいた行為しかないのです。(p357)愚かな人間はいつも、「私はもっと利口になろう」と言うのです。
彼は絶え間なくそうなろうとして努力し続けるのです。彼は決して立ち止まらず、また、「私は愚かだ」とは決して言わないのです。ですから観念に基づいた彼の行為は少しも行為ではないのです。
行為とは為すこと、動くことを意味しています。しかしあなたが観念を持ったとき、それは単に観念作用すなわち思考の過程が行為と関係しながら動いているに過ぎないのです。それでは観念が存在しないとき、どうなるでしょうか。 あなたはあるがままのあなたになるのです。あなたは無慈悲で、不寛容で、残酷で、愚かで、思いやりがないのです。あなたはそのような人間でいられるでしょうか。もしあなたがそうするなら、次にどうなるか見てみることにしましょう。
私が無慈悲で愚かなことを認識し、その通りであることを自覚したとき、どうなるでしょうか。
そこに慈悲深さと理解力が生まれていないでしょうか。私が無慈悲であることを、言葉の上や人為的にではなく、完全に認識したとき、私が無慈悲で、情がないことを本当に認識したとき、そのあるがままのものを直視しているという事実の中に、愛が生まれているのではないでしょうか。
私が清潔であることの必要性を理解するなら、問題はきわめて簡単なのです。私は手と身体を洗いにゆきます。しかしもしそれが、「私は清潔にしなければならない」という理想であるなら、どうなるでしょうか。そのとき、清潔は先に延ばされてしまうか、単に表面的になってしまうのです。(p358)
観念に基づいた行為は非常に表面的であり、少しも真の行為ではないのです。それは観念の作用に過ぎず、思考の過程が動いているだけなのです。
人間としての私たちを変革し、私たちに再生や復活や変容をもたらす行為は、観念に基づいている行為ではありません。それは報酬や処罰の結果とは関係のない行為なのです。そのような行為は時間を超えています。なぜなら精神──それは時間と計算の過程であり、分離したり、孤立する作用です──は決してその中に入ることができないからです。
この問題はそう簡単に解決することができません。あなたがたの大部分は、質問して、「はい」とか「いいえ」という答を期待しているのです。「それはどういう意味ですか」というような質問をして、ゆったりと座りながら私に説明させることはたやすいことです。 しかし、あなた自身でその答を発見したり、その問題が自然に消えてしまうほど深く、明晰に、真摯にその問題を探求することは比較にならないほど難しいことです。そういうことが起こりうるのは、精神がその問題と向かい合って、本当に沈黙しているときにかぎるのです。その問題は、あなたがもしその問題を愛しているなら、夕焼けと同じくらい美しいものなのです。もしあなたがその問題と敵対しているなら、あなたはそれを決して理解できないでしょう。私たちはたいてい敵対しているのです。なぜなら私たちはその結果を恐れたり、私たちが先へ進んで行ったときに起こるかもしれないことを恐れているからです。それで私たちはその問題の意味とその範囲を見失ってしまうのです。
25章(p359)
クリシュナムルティ 自我の終焉
行為★★★
クリシュナムルティが好きになれない人はノンデュアリティとは親和性が低いと思う
ノンデュアリティなんぞに興味がない人の方が世の中で生きやすいからそっちのがいい
クリシュナムルティにピンとくるなら
マハラジの言葉をきいてほしい
あなたが求めているのは、あなたであるものを行為のなかで表現することなのだ。このためにあなたは身体とマインドをもっているのだ。それらを手にし、あなたに仕えさせなさい。
p230 046章 マハラジ
他者をあなた自身のように愛しているというふりをしてはならない。
彼らとあなたがひとつであると悟らないかぎり、あなたに彼らを愛することはできない。 あなたではないもののふりをしてはならない。
あなたであることを拒んではならない。
あなたの他者への愛は自己知識の結果であって、その原因ではない。
マハラジ046章 p231
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マハラジも宗教者ではなくて、俗世界でタバコ屋を営んでいた人。西洋人のモーリス・フリードマンが「発見」して世に広めた。何の宗教団体も作らず、自宅の離れで講話をしていた30代半ばで悟りを開いた。
個人的にラマナ・マハルシやニサルガ・ダッタ・マハラジは現代のブッダだと思っている。
ブッダやキリストもいいこと言ってるだろうが、何処まで本人が言ったか疑わしい。
マハラジやプンジャジ(パパジ)はテープレコーダーで録音されて、実際の生き方も知られている。パパジやラメッシは英語も喋れるので翻訳の問題もあまり無い。
欲望は心に印象を残したときだけ問題となる。
問題なのは印象であって、欲望自体ではない。
飛ぶ鳥は空に跡を残さない。魚は水に跡を残さずに泳ぐ。
もし私たちが何の印象も足跡も心に残さずに生きることができるなら、まったく何の問題もないのだ。
あなたは心の中に、「私はこれをすべきだった、あれをすべきではなかった」などといった想いをためこむ。
それらの印象が、何度も何度もあなたをこの世界という現象に巻きこむのだ。
p050 04章 パパジ
とはいえ、ノンデュアリティなんて、とてもじゃないが人に勧められるもんじゃない、せいぜい『自分は好きだけどね』ぐらいの話
「もし心に想念がなければ、そのときあなたは誰なのか?」と私は言う。
もし何の想いも抱かなければ、もし源という根底から一つの想念も起こさなければ、その瞬間、あなたは誰だろうか?
一つの想いも起こしてはならない。そしてあなたが誰なのかを見なさい。
「私は瞑想しなければならない」「儀式を行なわなけれならない」と考えてはならない。
もし想念が起こったなら、それを調べなさい。
それがどこから現れたのか見いだしなさい。
これを専心して行なえば、この「私は誰か?」という想念は消え去るだろう。
それを正しく行ない、この想念が消えたとき、すべては終わるのだ。
この想念が消え去ったとき
「私は瞑想しなければならない」「儀式を行なわなければならない」という想いも消え去り、あなたは源そのものとなる。
この探求は、想念が消え去っていく源へとあなたを連れていくのだ。
他のどの想念も、どの修練も、あなたを源から遠ざけてどこか他のところへ連れていくだけだ。
あなたはこの想念や修練に永久にしがみついてしまう。これがどの僧院やアーシュラムでも起こっていることなのだ。
このような執着は結果をもたらさない。修練方法への執着があるばかりで、自由という目的は見失われてしまったのだ。
p113 11章 パパジ
会話のはじめに戻ろう。一つの想念が消え去った。そして次の想念はまだ来ていない。もし想念の合間に現れるギャップを見てその中にとどまれば、どんな苦しみもありえない。どんな苦しみもそこに入りこめない。ただそれを見なさい。私たちが苦しむのは、これに注意を払わないからなのだ。
パパジ28章p243
どのようにしてそれを見るのでしょうか?
バパジ
これについては明確にしなければならない。まず、あなたは自分自身の真我を見ている それはあなたから一センチも一ミリも離れていない。あなたはこの質問をその場所から尋ねている。この質問はその場所から起こったのだ。それはあなたに非常に近く、とても親密な場所だ。それはそれほど近いため、その場所があなたから離れているという概念さえ存在しえない。(p151)
この質問が現れた場所に戻りなさい。それはその質問が見られ、認識されたところではなく、それが湧き起こったその元の場所だ。それは呼吸の起こる以前の場所だ。質問するにも呼吸することが必要だ。そうではないかね?それゆえ、それは呼吸が起こる以前、質問が起こる以前の場所なのだ。
その場所はあなたの内側にある。それがあなたの真我だ。だが、「どのように」と尋ねた瞬間、それはおのずとあなたから離れたものになってしまう。「どのように」という言葉があなたを真我から切り離す。その言葉には触れないほうがいい。なぜ時間を無駄にするのか? それらはあなたを混乱させ、その場所からあなたの注意を切り離すばかりだ。この言葉は忘れてしまうがいい。呼吸も言葉も使わずに、その両方が湧き起こるその場所を見いだしなさい。もしそれを得たなら、あなたはそれを得たのだ。それを失ったのなら、あなたは失ったのだ。[了]
16章 p152
それゆえ、私はあなたに言う、「それを達成するために努力は要らない」と。それは常にそこに在り、あなたが行なうこと、あなたが為すことのすべてを支えているのだ。
非常に鋭敏な理解力をもつ人がそれを得るだろう。ある人は理解するが、ある人にはけっして理解できない。ある人は一瞬のうちに理解する。その瞬間は時を超えている。一秒の十六分の一ほどもかからない。気づきは常にそこに在る。だが、誰がそれを見るというのか? このために時間は必要ない。 気づきを知るためにどうして時間が必要だろうか? ある人は一瞬のうちにそれを見る。ある人は何年もかかるだろう。ある人は一生かかるかもしれない。 ある人は三千五百万年努力しつづけるかもしれないのだ。
ある人は師の言葉を聞いただけで理解し、一瞬のうちにそれを見る。師からの一言ですべては終わるのだ。
これがどのように起こるのか、それが何に依るものなのか、私は知らない。それゆえ、私は何の条件も求めないのだ。私は道徳的な規律をあなたに与えない。それは宗教のすることだ。私は言う、規律もヨーガも要らないと。あなたが行くべきところなどないのだ。教会や巡礼に行くことも、聖なる河で沐浴することもない。それらは助けにはならない。あなたはヒマラヤへ行くかもしれない。どこかの寺院へ行くかもしれない。
だが、そのようなことは助けにならない。それは間違いない。あなたは自分自身の真我に直面しなければならないのだ。
もしこれを無視して天上界のブラフマー神に会いに行ったとしても、彼にあなたを助けることはできない。
なぜなら、彼自身が束縛されているからだ。 彼自身が解脱を求めている。 すべての神々は解脱を待ち望んでいる。最高の神、最高の教会、最高の寺院はすべてあなたの内側にあるのだ。ただそれが見えないため問題が起こる。それが内面にあるため、あなたは注意を向けずにいる。(p254)それはあなたには簡単すぎる。あなたは困難なほうを好むのだ。 あなたは探求が困難なものであってほしい。だが、あなたが探しているものは常にそこに在る。それはあなたの呼吸の背後にある。今、それを見てみなさい。どこに呼吸は位置しているだろう? あなたの呼吸はあなたからどれほど離れているだろうか? それはあなたの網膜の背後にある。
ただ内側を向きなさい。 網膜の背後を見なさい。そして目に光と見る力を与えるその場所を見るのだ。
誰もこのことについて語ってこなかった。誰もあなたにこのことを話さなかった。 網膜の背後に一つの場所があり、網膜はその場所から顕現全体を見る力を得ている。ただそれを知るだけでいい。
ただそこを見なさい。ヨーガによっても、ヤグニャによっても、祈りによっても、慈善によっても、巡礼によっても、沐浴によってもそれを達成することはできない。私が語るこの場所は、神聖な中でも最も神聖な場所だ。ひとたびその中で沐浴すれば、それで充分だ。その沐浴とは何か? この神聖な沐浴とは、汚れなき無想の境地のことだ。このガンジス河で、この聖なる水の中で、 この想念の起こらない場所で沐浴しなさい。
30章 p255 パパジ
特に結びの言葉はなし
今回のno+e は走り書きです
皆さんにとって来年が良い年でありますように