小説「ある日の"未来"」第11話
「格差」
ばあにゃの容体は落ち着いてきてはいたが、医者からはもう少し様子を見たほうがよいと言われ、このまましばらく入院することになった。
ばあにゃは始めは、帰ると言って聞かなかったが、ママとパパに説得され、しぶしぶ同意したのだった。
未来は陽葵(ひまり)との約束が気になっていたが、今日はばあにゃのそばにいてあげたかった。それに、もしまた容体が急変したら、おちおち陽葵と会ってはいられないだろうとも思った。
陽葵に会いたいという気持ちと、ばあにゃがかわいそうだという気持ちが、心の中で行ったり来たりを繰り返していた。
しばらく迷っていたが、未来は決心して、陽葵にメールを送ることにした。
これまで友だちからのメールに、まともな返事をしたことがなかった未来だったが、今回は、陽葵にはきちんと事情を説明する必要があると考えたからだった。
とはいっても、文章を書くのが苦手な未来だ。さっきから、書いては消してを繰り返すばかりで、なかなか送信ボタンにまで辿り付けなかった。
結局、
「ごめん。今日は行けなくなった。そのかわり、ナチュラルバースで会いたいな」
という、ぶっきらぼうなメールになってしまった。
陽葵からはすぐに、
「いいよ」
とだけ、返事がきた。
この二人はやはり、メタバースでしか打ち解けた話ができないらしい。
パパは何かあったら連絡して欲しいと言い残して、職場に戻っていった。ママはリモートワーク用のパソコンを取りに、一旦、家に帰っていった。
未来は熟睡しているばあにゃの顔を覗いてから、起こさないようにと、そっと病室を出た。廊下はひっそりと静まり返っていた。メタバース用のイヤフォンとマイクを使うにしても、あまりに静か過ぎるのは都合が悪かった。
未来は病棟の奥にある談話コーナーに行ってみた。半透明の衝立で仕切られた各コーナーには、ゆったりとした応接セットが置かれており、完全な個室とはいかないが、そこそこプライバシーが保たれている。未来は空いているコーナーを見つけると、椅子に座って、スマートフォンを操作し始めた。
すると突然、人型ロボットが入り口に現れた。未来がギョッとして見ると、
「何かお飲みものは、いかがですか?」
と訊いたのだった。どうやら、この病院で働いているロボットスタッフのようだ。
未来の家の学習ロボットとは違って、限りなく人間に近い姿をしている。
「何があるの?」
と未来が尋ねると、ロボットは、
「こちらからお選びください」
と言いながら、タブレット端末のメニューを見せた。そこには、こどもが好きそうな数種類のソフトドリンクが表示されていた。
未来はその中から、いちばん安いオレンジジュースを注文した。もちろん無果汁だ。
「ありがとうございます。ただいまお持ちしますので、しばらくお待ちください」
ロボットはくるりと向きを変えると、静かに立ち去った。
この時代、AIロボットはありとあらゆる職場に進出していた。
この病院でも、受付や会計などの事務処理はもちろんのこと、検査や看護、さらには一部の診察や簡単な手術でさえもロボットが担っていた。
医師や看護師などの専門スタッフは、ロボットの業務を監督し、必要なフォローや指示をするのが主な役割だった。
日本は急速な少子高齢化に加えて、2008年以降、総人口が減少に転じたため、今では、世界に類を見ない、深刻な労働力不足に陥っていた。
そのため、政府はAIロボットの活用を積極的に推進したのだった。
同時に、ロボットに職を奪われるとの批判に対応するため、教育の完全無償化とリカレント教育を推し進め、さらにボランテャア活動や芸術文化活動を支援することにより、ロボットに使われるのではなく、ロボットを使うことができる優れた能力と豊かな個性を兼ね備えた人材を育成しようと、さまざまな施策を展開していたのだった。
未来はロボットがジュースを運んでくる間に、陽葵とよく行くナチュラルバースにログインした。そこは、世界中の美しい森や海岸を散策できる、陽葵もお気に入りのメタバースだった。
ナチュラルバースの入口では、陽葵のアバターが先に来て待っていた。
彼女は未来のアバターを見つけると、いつもの優しい笑顔ではなく、心配そうな表情で、
「どうしたの? 何かあったの?」
と、尋ねてきた。
「それは、これからゆっくり話すから、まず、どこに行くか決めようよ」
「そうね、やっぱり海がいいかな」
「それじゃ、どこか南の島にでも行こうか」
「うん。いいね」
未来はさっそく、インド洋に浮かぶ、サンゴ礁に囲まれた小さな島の一つを目的地に設定した。すると、画面は一瞬にして、エメラルドグリーンの遠浅の海に変わった。真っ白な砂浜が眩しい。海岸にはだれもいなかった。
2032年、地球温暖化が限界点に達してしまった今、至る所で深刻な環境破壊が進み、かつての豊かな自然は無残なまでに破壊されていた。もはや、人々はメタバースの中でしか、美しい自然を体感することができなくなっていたのだった。
アバターの二人は、椰子の木陰に腰を下ろすと、しばらく黙って、うっとりと海を眺めていた。
この島が現実にはもはや存在しないことなど、二人には知る由もない。温暖化による海水面の上昇は、毎年、南国の島々を、一つまた一つと飲み込んでいたのだった。
「今朝、おばあちゃんが熱中症で倒れて、入院したんだ」
未来がポツリと言った。
陽葵は事の次第を飲み込むと、感心したように言った。
「たいへんだったのね。でも、未来は偉いね。わたしだったら動揺して、どうしていいかわからなかったかもしれないわ」
「そんなことないさ。ぼくだって気が動転して、夢中でママを呼びに行っただけなんだから」
「それでもすごいと思う。もし未来がいなかったら、おばあちゃんは助からなかったかもしれないんでしょう」
そう言われて、未来のアバターは照れくさそうに頭をかいた。そのしぐさには、現実世界の未来が顔を出している。
「未来にはおばあちゃんもいて、いいね。わたしにはママしかいないのよ」
未来は驚いて陽葵の顔を見た。彼女から家族の話を聞くのは、これが初めてだった。
「そうなの? でも、パパはいるんでしょう?」
「うーうん。パパはわたしが生れてすぐに、病気で死んじゃったの」
陽葵のアバターは淡々とした表情で答えている。現実世界の陽葵はどうなんだろうかと、未来は想像してみた。こんなときにどんな言葉をかけたらいいのか、アバターの未来には思いつかなかった。ましてや、現実世界で同じ話を聞いたとしたら、いったいどう反応すればよいのだろう。ここがメタバースでよかった、と未来は思った。
「わたしは大丈夫よ。心配しないで」
と、陽葵は未来の胸の内を察しているかのように、穏やかに話を続けた。
「でも、ママはたいへんだったと思う。母親とこどもだけの家を母子家庭って言うのよ。知ってる? ママは仕事をしながら、わたしを一人で育てたんだもの。すごいと思う」
両親がそろっていることが当たり前だと思っていた未来には、それがどういうことなのか、ピンとこなかった。しかし、もし未来にもママしかいなかったとしたら、と考えると、とたんに胸が苦しくなった。
「ほんと、陽葵のママはすごいね。それに、陽葵もすごいと思う」
未来の言葉に、陽葵のアバターは優しく微笑んだ。
「ありがとう」
少子高齢化が急速に進み、少子化対策が声高に叫ばれた結果、近年、一人親家庭に対する支援策は格段に充実していた。
“こどもは社会全体で育てる”
という考え方が、ようやく日本にも浸透してきたのだった。すでに大学院までの教育の完全無償化が実現しているうえに、収入に応じて子育て支援金が増額されているので、かつてのような一人親家庭の貧困状況は大幅に改善されていた。
にもかかわらず、所得格差は広がる一方だった。相変わらず、子育て世帯の所得は低レベルのままだったし、若い世代の収入も一向に伸びなかった。将来への不安から、多くの若者が結婚に躊躇していた。
政府はこのままでは、少子化を食止めることも、所得格差を是正することもできないと、深刻な危機感を抱いていた。
そこで打ち出したのが、収入に応じて税金をバックするベーシックインカムの導入だった。それにより、全ての国民に一定レベルの収入を保障することで、将来の生活不安をなくそうと考えたのだった。一方で、高額所得者や資産家には累進課税を強化しようとした。
しかし、富裕層の反発は政府の予想を遥かに超えていた。所得隠しや脱税が相次ぎ、国外脱出も跡を絶たなかったのだ。
今や、所得格差は国境を越えて拡大する一方だった。この問題はもはや一国では解決でないグローバルな課題であり、各国の政府が協力して、共通の対策を打ち出す必要があることは、誰の目にも明らかだった。
もはや一刻の猶予もならない気候変動対策をはじめ、ヨーロッパで起きている戦争を終わらせ、核戦争を回避することと同様に、世界の所得格差を是正し、貧富の差をなくすことは、国連に課せられた重大な責務ではあったが、その期待に応えるには、今の国連はあまりにも弱体だった。
しかしまだ、希望は残されていた。大多数の発展途上国を中心に、国連改革への気運が高まっていたからだ。今年、従来の安全保障理事会を廃止し、新理事会を発足させることに成功した国連は、矢継ぎ早にさまざま改革案を打ち出していた。拒否権を失った旧常任理事国もこれまでのように、自国だけの利益を追求することができにくい状況が生れていたのだった。
それらの改革案の一つとして、富裕層と多国籍企業への課税権を、各国政府から国連に引き上げようという条約案が提起されていた。これが成立すると、富裕層や多国籍企業は、税金を逃れるために国外脱出をする意味がなくなり、世界のどこにいても、相応の負担を課せられることになる。
予想どおり、貧困層と富裕層、途上国と先進国の対立は激化する一方だったが、もしかしたら、わずか数パーセントの富裕層が世界の富の大部分を独占するという、今の超格差世界が解消されるかもしれないという期待が、これまでにない勢いで、急速に広がっていたのだった。
メタバースにいるときは、そんな現実世界の状況から目を覆っていられた。現実逃避の手段として、これほど有効なシステムはなかった。
目の前に広がる夢のような景色に、二人はいつまでも浸っていたかった。
「いつも陽葵といっしょにいたいな。そしてkissもしたいな。もしいやならよすけど」
どこかで聞いたような台詞だ。
「いやよ」
「やっぱりだめか」
「ここじゃなくて、いつもの海岸でならいいわ」
「え!?」
未来のアバターの大きな目が、まるでフクロウのようにまん丸になったのだった。
「あら、こんな所で何してるの?」
ママの声に、未来はいきなり現実世界に引き戻された。慌てて、未来はスマートフォンの電源を切った。
ふと見ると、テーブルの上にはオレンジジュースが置かれている。
メタバースでは、目の前から未来が突然消えてしまったので、陽葵は何が起ったのかと、怪訝な顔で辺りを見回していた。
ナチュラルバースのエメラルドグリーンの海は、いつのまにか、オレンジの夕日に染まっていたのだった。
(続く)