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小説「ある日の“未来”」 第6話
「平和」
未来は部屋に戻ると、学習ロボットを相手に、午後の勉強を始めた。
「午前中の続きをやろうか」
と未来が言うと、学習ロボットはモニター画面に大きな建物を映し出した。タイトルには「国際社会と国際連合」と書かれている。
苦手な教科の社会だが、未来は、今、ヨーロッパで起きている戦争には関心を持っていた。未来は身を乗り出すようにして、熱心にテキストを読み始めた。
しばらくすると、
「お! ちゃんと勉強してるな」
と言いながら、パパが部屋に入ってきた。
ドアはいつも開けてある。未来の家では、小学生のうちは、ドアを開けておくのが決まりだった。
「あれ、パパ、もう帰ったの?」
「いや、午後からまた会議だけど、まだ時間があるから、ちょっと休憩に寄っただけ」
パパは時々、こんな風に、仕事の途中でもふらっと帰ってくることがある。
ずいぶん気楽な会社なんだな……。
と、そのたびに未来は思うが、パパがどんな仕事をしているのか、詳しく聞いたことはなかった。
「はい、これ、差し入れ」
と言いいながら、パパは缶ジュースを1本、未来に手渡した。
「うわー、オレンジジュースだ。これ、本物じゃない!」
未来が驚くのも無理はなかった。気候変動の影響で世界の果物の生産が激減したため、各国は厳しい輸出制限をかけている。生のジュースは、今ではめったに手に入らない高級品になっていたのだ。
「どこで買ったの? よく見つけたね」
興奮する未来に、パパは満足気だ。
「買ったんじゃなくて、作ったんだよ」
「え、パパが作ったの?」
「そうじゃなくて、パパたちが応援している農業団体がね」
パパは数年前から、社会貢献を目的とするNPOの役員をしていた。
今、パパたちは、地元の農業団体を支援して、農家を再生するためのプロジェクに取り組んでいる。
オレンジやキウイやバナナなど、今や輸入が困難となった果物を、南房総の温暖な気候を利用して有機栽培し、地元で加工して、ネット販売で全国の消費者に直接届けるというプロジェクトだ。
自然環境の回復と地域農業の再生をめざした画期的な事業として、全国から注目を集めている。
パパが持ってきたジュースは、そこで作った製品だった。
こんなにおいしいジュースは初めてだ……。
化学物質がたっぷり入ったジュースしか知らない未来には、まさに新鮮な驚きだったのだ。
パパの説明は難しくて、未来にはよくわからなかったが、このジュースは、一口一口、味わいながら、大事に飲んだ。
飲み終わると、未来は、
「ねえ、パパ、国連って、なんで必要なの?」
と、唐突に訊いた。
「お! 社会の勉強かい? 偉い、偉い! 未来は社会が苦手だからなあ」
パパは未来の質問には答えず、ただ、未来を褒めた。
「ねえ、なんで必要なの? 国連があるのに、どうして今、ヨーロッパで戦争をしているの?」
未来には珍しく、執拗に訊いてくる。
「そうだなあ。未来は、なんでだと思う?」
パパは、なおも答えない。
「パパ、ずるい。ぼくが訊いてるんだよ」
「ごめん、ごめん。ごまかすつもりはないんだけど、じつは、パパにもよくわからないんだ」
「え!? パパにもわからないことがあるの?」
「そりゃあ、そうさ。世界はわからないことだらけだからね。ところで、このロボット君は、なんて教えてくれたのかな?」
パパは学習ロボットに目をやった。
「うん。それが、ロボッチにもよくわからないみたい。何分もピーピー鳴らしてから、ようやく答えたと思ったら、“それは、人間がバカだからだね”って言うんだよ。まったく、ロボットのくせに生意気だよ」
それを聞いて、パパは大笑いした。
「それはいいね! 案外、ロボット君の言うとおりかもしれないな」
パパは感心したように、ロボットの頭を撫でている。学習ロボットはどう反応していいのかわからないといった風で、モニターには質問を待つサインが点滅していた。
「ご質問は、なんでしょうか?」
パパは未来と目を合わせると、にっこりと微笑んだ。
真顔に戻ると、
「それじゃ、未来は、国連なんか必要ないと思っているのかな?」
と尋ねた。
「ううん、必要ないとまでは言わないけど、今、ヨーロッパで起きている戦争を、どうして止められないのかなって、不思議に思うんだ。だって、国連は世界の平和を守るためにあるんでしょう?」
未来の真剣な表情に、パパは驚いた。これまで未来のことを、物理や数学には夢中になるが、社会や世界の出来事には無関心だと思っていたからだ。
知らないあいだに、子どもは確実に成長していた。そんなわが子を、頼もしく思うのだった。
パパは未来の目を見ながら、ゆっくりと話しはじめた。
「そうだね。国連はそのためにあるんだよね。未来も勉強して知っていると思うけど、人類はこれまで、戦争ばかりしていたからね。特に、20世紀は二つも大きな戦争を経験したから、もう二度としないと誓って、国連という組織を作ったんだったね。それなのに、またヨーロッパで戦争を始めてしまった。ロボット君が言うとおり、ほんとうに人間はバカだ、とパパも思う」
未来は神妙な顔つきで聞いている。
2032年の国連は、まさに崩壊の瀬戸際にあった。
2年前に、ヨーロッパで始まった戦争は、このままでは、全面核戦争にまで発展しかねない危険な状況にあった。安全保障理事会は、対立する大国同士が拒否権を乱発し合い、平和への道筋を描けないでいた。
そんな状況のなかでも、多くの開発途上国が主導権を握って、国連改革の動きが具体化しつつあった。
このまま国連が崩壊するくらいなら、いっそのこと、機能しない安保理を廃止して、新たに、5年ごとに、各国の互選による理事会を組織しようという提案だった。
新理事会では理事国の拒否権は認めず、仮に理事会で決議案が否決されても、総会で3分の2以上の賛成があれば成立するという、画期的な案だった。
当然、現常任理事国は猛反対した。しかし、彼らも、このままでは、全面核戦争に発展しかねないという危機感だけは共有していたのだった。
世界中で、平和を望む市民が、国連に改革を迫っていた。あらゆる国で、連日、反戦デモが食料デモや地球温暖化デモと合流して、数十万人、数百万人の規模で整然と行われていた。
「平和か! 破滅か!」
その掛け声が、全世界に反響していたのだった。
とにかく、全面核戦争だけは避けなければならない。
その共通の思いが、国連改革を後押した。
そしてようやく、今年最初の国連総会で、開発途上国のグループが提案した三度目の安保理改革案が、棄権に回った一部の常任理事国を除いて、可決・成立したのだった。
世界が変わるかもしれない!
世界中が興奮の渦に巻き込まれた瞬間だった。
しかし、改革は緒に就いたばかりだ。
2032年が、ほんとうに、人類史上これまでにない歴史的な年になるのかどうか、まさに正念場を迎えていたのだった。
パパは話を続けた。
「でも、このままではいけないと思う大勢の人たちが、国連を良くしようと、がんばっていることを、未来は知っているかな?」
「え! そうなの?」
未来の目が輝いた。
パパはこれまでの一連の国連改革の動きを、未来にもわかるように、やさしく説明した。
それを聞いて、未来は安心したように、
「やっぱり、人間はバカじゃないだろ!」
と言いいながら、ロボットの頭を軽く小突いた。
すると、それまで休止モードだったロボットが、また、モニターにサインを出した。
「質問はなに?」
未来はにんまりしながら、パパと顔を見合わせるのだった。
「さて、もう行かなくちゃ」
そそくさと部屋を出ていくパパの後ろ姿に、未来は言葉を投げた。
「パパ、ありがとう。また、ジュース持ってきてね!」
(続く)