レ・ミゼラブル~目からうろこ
もう、かれこれ25年前、友人の右京氏(底辺vol.3参照)と後輩のA君と私の三人で会ったときの話。
20代前半の真面目で爽やかなA君の表情が、めずらしく暗い。
近況を語り合い、一段落した時、
「実は、好きな子がいるんです…」
弱々しい声でA君が切り出した。
「えっ?あっ、ああ、そうなんだ……それで?」
私は先をうながした。
「まだ、彼女に告白はしてないんですが、それはどうでもいいんです。問題は…その子が最近配属された部署なんです。
その部署には若くてカッコよくて口のウマい営業マンが何人かいて、社内の女の子を食い荒らしてるって噂をよく耳にします。
だから、まだ恋愛経験のない10代の彼女が彼らの毒牙にかかったらどうしようと毎日気が気じゃないんです!」
A君は沈痛な面持ちで打ち明けた。
「それは、心配だね…右京さん、どう思います?」
私は右京氏に振った。
熟慮型の右京氏は、細い黒ぶちのメガネに指を添えて、まぶたを閉じていたが、しばらくして口を開いた。
「A君は読書家だから《レ・ミゼラブル》は読んだよね?」
「はっ?あ、あのう…ええ、《レ・ミゼラブル》は、もちろん読みました。」
唐突な問いに少し戸惑いながら答えるA君…
「《レ・ミゼラブル》のなかで、恋愛経験ゼロのうぶなコゼットが、家の前の道をたまに通りかかる美男の騎兵隊の青年に見とれている場面があるんだ。」
「ええ、覚えています、ジャン・バルジャンに引き取られてからずっと修道院で暮らしてきたコゼットが、修道院を出て、ようやく年頃の娘に成長した頃の場面だったと思います。」
文豪ユゴーはその場面を次のように描いている。
「年頃の娘に成長したが恋に免疫のないコゼットは、あのままだったら、あの美男の女たらしに遊ばれ捨てられていたかも知れない…母親のファンチーヌのようにね。」
右京氏は、諭すようにA君に言った。
「はぁ⋅⋅⋅⋅まァ、そうなっても不自然ではありません…」
「でも、そうはならなかった。なぜか?
マリウスという一人の青年の魂に触れたからです。」
右京氏の熱をおびた声が静かに響いた。
「たしかマリウスが、全身全霊の真心からの手紙をコゼットに送ったんでしたね!」とA君。
マリウスからの手紙を読んだ彼女の心をユゴーは本編にこう表現する。
「そう、以前、ほのかな好意を二人が互いに抱いていたことが前提にはなってはいるんだけれども、マリウスの手紙を読んだコゼットは、今度ははっきりとマリウスのその『誠実な魂』に感電してしまった。その後、ふたたびあの女たらしの美男の将校が門の前を通りかかったとき、すでに将校のことなどは眼中になくなっているコゼットがいた…」
その様子は本編ではこう記されている。
右京氏は続ける、
「なんにでも言えることですが、ひとたび【本物】を見ればニセモノはひと目でわかるようになります。
同様に女性も、男性から『本物の大誠実の魂』を向けられたら、もう振り向かざるを得ないんです!磁石みたいなものです!それこそ容姿、年齢、貧富、なんか全部吹っ飛んじゃう…
そして、『本物の大誠実の魂』に触れた女性は、その瞬間から、もう、『不誠実な男』を見抜けるようになるし、そんな男を気持ち悪いとしか感じなくなる。」
「なるほど、美男の将校を登場させることでユゴーはそれを表現しているんですね⋅⋅⋅」
私は感嘆の意を表した。
「ええ、下心のない本当に純粋な、我欲を突き抜けた、誠実な魂を向けられた人は、もうしびれエイみたいなもので、感電したように魂がシビレるんです。男女関係に限らず、人間というものは、人間の魂というものは、そういう風にできているんだ、と。ちゃんと魂のしくみをわかっている。ここがユゴーの凄さなんです。」
なるほど、
人の見えない心と心が感電し合うしくみ….かといって「好きだ!好きだ!」という恋愛感情は、なぜか感電しない。それどころか、嫌悪される。なぜなら、本質的に
【恋愛感情】=【執着】=【エゴイズム】
だからである。
【恋愛】は愛は愛でも【自己愛】
といえる。映画、ドラマ、歌、小説、などでは《恋愛至上主義》か?というくらい【恋愛賛美】のオンパレードであるが、本質的に【自己愛】なので、そもそも賛美されるような代物ではない。これを直視しないと、とくに女性は「レ・ミゼラブル」のファンチーヌのように傷だらけにされかねない。
コゼットに対するマリウスの思いは、「恋愛感情」という【執着】に苦しみながらも、苦しんだ果てに、その《下心》を《真心》に昇華することにかろうじて成功した、ということか。
右京氏は、さらに続ける…
「だから、心配する気持ちはわかるけど、A君なら大丈夫!手練手管など考えず、A君らしく、『大誠実の魂』を正々堂々とぶつけていったらいい。」
右京氏は包みこむような励ましで結んだ。
「ええ。なんとなくスッキリしました。ありがとうございます!」
A君は頬を紅潮させて言った。当初、弱々しく丸まっていた背筋はピンと伸びていた。
私は、この対話を通じて、一冊の本を読むのと同時にその本について人と語り合うことの楽しさをあらためて感じさせられた。なぜなら感性は人それぞれだから、色々な感じかた、捉え方があり、それを知ることによって視野が広がるからである。
また、右京氏の柔軟な発想と視点には、さすが出版社で書籍編集の責任者をしているだけあるなあ、と脱帽させられた。
後日、A君から嬉しい報告があったことはいうまでもない。