弱き者の戦いかた→《戦略的思考》
これだけは、間違いないっ!
それは、私を実際に見た人は1人ももれなく次のように感じるだろうということ。
《ひ弱》
だと。
「大丈夫ですか?」と憐れみの表情で声をかけられたことは数知れない。
ことに【腕相撲】のような、腕力がクローズアップされる場などになると、それは、より顕著となる。
実際、必ず負けた。
秒殺。
そんな私がある時点から、
《連戦連勝》
するように!!
筋トレはしておらず。
《戦略的思考》
に切り替えた、ただ、それだけ。
つまり「心理作戦」というやつだ!
まず、自分の弱点を逆利用。
骨と皮だけの腕と手首をふにゃふにゃさせて対戦相手や見物人たちに見せつけながら、か細い声で「まあまあ、お手柔らかに~」とつぶやく。
かたや、ガッシリとした体格の筋骨隆々の腕、かたや、ひ弱で華奢なハリガネみたいな腕…。
見物人たちからは、決まって
「ワァーッ、見て見て~あの人、スゴい筋肉~♡」
「でも、あの相手の人、大丈夫なの…?」
「おいおい!腕の骨折らないように手加減してやれよ~!」
みたいなコメントが入り、どっと笑いが起こる。
私は心の中で
「よーし、その調子、その調子。いい感じに進んでるぜ…へへへ」
とつぶやく。
このとき、対戦相手の心の中では何が起きているのか?
「うわ~こりゃ本当に腕の骨折らないように気をつけないとヤバいな…」という気持ちと「こんなヤツに本気を出したら恥ずかしいな」という『憐れみ』と『自制心』と『見くびり』の三位一体が瞬間的に作られているのだ。
それを一言で言えば、
《油断のかたまり》
が形成されているわけだ!
そもそも【腕相撲】なんて余興に過ぎず勝っても負けてもどうってことないという「軽視」が大前提として無意識に横たわっているのだからなおさら油断に拍車がかかる。
いよいよ向かい合ってテーブルに肘をつき、互いの手をにぎる。
このとき、たいていの男はギュっと強くにぎる。
私は逆に力を抜く。ふにゃふにゃにする。そして、敵の感触について
「うわ~、なんだこりゃ!まるで鋼鉄みたいだ!」
とヘラヘラ笑うのだ。またも笑いがさざめく…
もう、おわかりだろう、この時点で対戦相手の心の中では《油断の最高値》つまり、
本来の力の10%さえ出せない状態が出来上がっている!
そして、いよいよ【レディー・ゴー!】がかかるか、というときに、
「す、すみませんっ! 私、実は気功をやっているのですが、腕相撲に応用してもいいですか?」
と申し訳なさそうに言いつつ、目をつぶり、唇をすぼめ、合掌させた手を
フゥゥー
ハーッ!
カーッ!
と息をしながら上下させる。
見物人たちからは、
「気功?ほんとかよ~」
「そうゆうパフォーマンスいらねえから早くやってよ!」
等々のヤジが飛ぶ。
対戦相手はあきれたように苦笑い…
このとき、私の心の中では、何が起きているのか?
「これは、一生に一度の大勝負だ!この野郎、なにがなんでも、ぶっ殺したらあ!」と、自らの力を120%ぶちかます精神状態に追い込む…
かたや【油断のかたまり】
かたや【命がけ】、だ。
気功パフォーマンス終了後、「お待たせしました」と頭を下げて、いよいよ互いに手をにぎり、臨戦態勢へ。
そして、
レディー・ゴーッ!
この瞬間、私は全人生、全生命をこの一瞬に凝縮した瞬発力で自分の手首を内側にひねり、イッキに持っていく!筋力のなさを補うのはスピードしかない!
この時点で、対戦相手の手の甲がテーブルから15センチくらいの地点にくる!この間、0.5秒だ!
すっかり油断している対戦相手を最初のスタートで、ここまで持ってくるのは、スピードさえあれば、赤ん坊の手をひねるように簡単だ。
そして、いかに筋骨隆々でも、この位置に追いこまれると、力学的に力が入りにくい!
油断し切っていた敵も、この地点まで追い込まれると、さすがに目が覚め、本気を出しかねない。ここにきて、先ほどの「気功の演出」のくさびが生きてくるのだ。
こんなガリガリ野郎にここまで追い込まれたということはまさか気功の力なのか!?
と、一瞬、かすかに心によぎり、目の前の「不可解な現実」の《つじつま》を合わせようとする【吊り橋効果】を見込んだ計算。
そして、遅まきながら油断から目覚めつつも「気功の力」が心によぎり、「本気モード」にシフトしきれず、力を出せないこの状態で、さらに、相手の耳もとの近くで、それは、もう、これ以上ないというくらい馬鹿デカイ声で
「カーッ!」
と、いかにも気功らしいかけ声を叫びながら、自分の全体重を腕にかけ、敵の手の甲がテーブルから5センチくらいの位置に持っていく。
スローモーションで解説したが、実際のスピードは、レディー・ゴー!から、ここまでわずか1秒の速さでやらねばならない。
まわりからは、敵の手の甲がテーブルからたったの5センチしかないこの時点で、すでに私が勝利している《絵柄》に見えるので、敵の手の甲が完全にテーブルに付かなくてもよいから、反撃をくらうまえに、「ヨッシャー!」と叫んで手を放し、すばやく両腕を高くあげてピョンピョン飛びはねながら、「ヨッシャー!」と声を張り上げるのだ!
見物人たちは、
「スゲエー!」
「ええっ?勝っちゃったよー!」
「油断だよ!」
「気功、マジやべぇー!」
等々、やんや、やんやの大喝采…
ふと、筋骨隆々のやっこさんに目をやると、キツネにつままれたような表情でフリーズしている…
私は即座にやっこさんや見物人たちに
「いやぁ強かった~、久しぶりにこんな強い人とやりました~」
と、まるでいっぱしに戦ったかのごとき感想をのたまう。
見物人の1人が感激の面持ちで
「スゴいですね!」
私は
「いや~まぐれですよ、まぐれ。」
とニコニコしながら余裕をかます。
「えっ、ほんとに気功やってるんですか?」
別の見物人の問いには、ちょっぴり寂しげな表情をつくりながら
「気功のことは…忘れてください」
とムダにミステリアスを演出。
そうこうしていると、必ずといってよいほど我にかえった筋骨隆々のやっこさんが、取りつかれたような目で近づいてくる。
そして、人差し指を立てながら、
「もう一回!」
と要請してくる。
いや、懇願に近い。
それは、そうだ。
みんなの前で筋骨隆々の自分が、こともあろうにこんなハリガネ野郎に負け、まるで「見かけ倒しの筋肉バカ」みたいな印象すら与えてしまったのだから。
なにより本気を出せなかった自分自身がスッキリしない。
しかし、どんなに懇願されても二度と応じない。
なぜか?
二度目は、120%確実に負けるからである。
これが《戦略的勝利》の欠点かも知れない。
でも、《戦略的思考》により私は、数々の腕相撲勝負で現実に連勝してきたのだ。
トーナメントの場合は、「最後に勝ち抜いた一番強い人とやらせてください」と伝える。
私の姿から、「相手にならない」と判断され「余興」として承認され、そしてまさに、「余興」として実施される。
トーナメントで勝ち抜いた「最後の勝者」は、筋力もエネルギーも使い果たした状態である上に、私との勝負は自らの勝利が確定したあとの「お遊び余興」という意識だ。
そこに前述の戦略的勝負をかけるのだから、ほぼ確実に勝てる。
そして、やはり「懇願」がはじまる。
「くだらねえ~」
「こすっからいヤツ」
「痛すぎ~」
「しょっぺえな~」
「その勝利、意味ある?」
「それ、勝利なの?」
こんな声が聞こえてきそうである。
だが、私には、1点の悔いもない。
実はここでの戦略自体は「戦略」と呼べるほどのものではない。
大事なことは、なにより、「勝てるわけがない」という諦めの心でいるかぎり、「勝とう」という気持ちにさえならない、ということなのだ!
そうなると「どうすれば勝てるか?」という「戦略」を考えるなど思いもよらない。
つまり「戦略的思考」の発生源には
「心の変革」
があったということなのである。
「こんな、ひ弱な自分なんかには、しょせんムリなんだ…」とあきらめていたことについて悪知恵をしぼって、そのあきらめを打ち砕いたのだ!
「戦い」というのは知恵だ!
人類がまともにやりあったら敵わないライオンやトラやインド象らの上に君臨できたのもひとえに武器を作った「知恵」のたまものなのだ。
最後に箴言を一つ、
「敵を知り、おのれを知れば、百戦危うからず。」(孫子)
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