見出し画像

地口の松

【地口】世間でよく使われることわざや成句などに発音の似通った語句を当てて作りかえる言語遊戯。デジタル大辞泉より引用
なんちゃって時代物/短編/江戸後期/素人地口





 井戸の水が跳ねて顔にかかった。冷たさに飛び跳ねる。
「さみいな」
 呟くが、返事をする者はいない。人影もない広い庭で我はひとり鼻をすすった。

 江戸に奉公に出てきて、この冬で五年になった。
 まだ丁稚の我は、てんで下っ端の身である。
 だから誰よりも早起きをしてこうして水を汲む毎日だ。 
 良くしてくれている旦那様と女将さんのお陰で、日々の暮らしに不満はなかった。
 どんな大店であっても奉公人に厳しくあたるのは江戸では珍しくないことだ。そう奉公仲間に聞いたことがある。
 その点で我は、恵まれている方のようだ。
 旦那様は商いには厳しい人だが、殴る蹴るなどの折檻は受けたことがない。飯抜きが良いところで、それも、あとからこっそり握り飯を与えてくれる。
 ひもじい思いや、わびしい思いをこの五年していないのは、仕合わせなことに違いない。
 水汲みなんて嫌がる奴が多い。だが、率先して桶を持つのは少しでも良い働きをして旦那様に貢献したいからだ。
 あわよくば、我の稼ぎで国の家族を楽にしたい。
 それもまずは旦那様に満足いただくのが一番だと、鼻をすすりながら、井戸から桶を引きずり出す。

 水でいっぱいにした桶を、えっちらおっちら屋敷に運ぶ。
 ふいに角で、なにやら下駄のこすれる音がする。朝から慌ただしい。そう思っているとかけてきた女中の一人と鉢合わせた。とっさに桶の水を守る。
 寸で止まった女は、我の姿を認めて息を吐いた。
「金松さん、すいやせん。お水、平気かい」
「ああ、平気よ」
 幸い、貴重な水は一滴も零れなかった。
 それよりも、慌てた様子の女が気になる。普段からよく働いている奴ではあったが、こんな風に着物の裾を上げて走る姿なんて初めて目にしたかもしれない。
 走るのは、男の仕事。
 女が古着物の裾をたくしあげるのは、はしたないことだ。
 そう云い張る女将さんの命で、この屋敷に通う女達は皆、流行りの着物に袖を通すことができる。
 流行りと言っても流行の襟合わせが許されている程度だが、女将さんが用意した布を重ね合わせ、丈をつめる女達は皆、仕合わせそうな顔をしている。この屋敷の奉公人は皆仕合わせだ。
 だから自然と大勢いる奉公人達も皆、協力しあって動いている。
 どれも旦那様と女将さんの人柄のおかげだろう。
「急ぎの用でも?」
 そう訊ねたのは、何も、特別なことではない。
 急ぐのであれば我の足の方が速い。そんな当たり前のことを口にしただけだった。
 しかし、女の顔に光がさす。
 降ってわいた牡丹餅よろしく、女は忙しなく周囲を伺って、我の腕をぐいぐい引っ張った。
「ああもう、困ったことになっちまったんですよ。金松さんがいて良かった」
「一体、何があったんで?」
「ここじゃ話せないよ。中に」
 女が急かすままに、屋敷の敷居を跨ぐ。
 そこは普段男が入ることの少ない勝手口だった。
 竈からはもくもくと煙が出ている。朝は済んだが、何かしらやることがあるのだろう。大棚、とまではいかないが、そこそこ江戸でも名の知れた名家なのだ。となれば奉公人も女中の数も多い。
 云われるままに、水を土間に置く。どうせ水を一番使うのも彼女らだ。ひとまずは、重い桶から解放された腰を伸ばす。
 女はそれを見届けてから、おもむろに口を開いた。
「金松さん、お嬢様がいなくなっちまったんです。いま奉公人で、捜しているんだよ」
「お嬢様が?」

 ここのお嬢様と云えば、えらい箱入りで、大層甘やかされて育ったことで有名な、旦那様の末娘だ。
 屋敷の子供達は皆、それぞれ自立しているらしい。
 長男はどこかに奉公修業の身らしく、我は会ったことがない。次男はどこかで刀を討つ職人になったやら、三男は幼馴染と早々に所帯を持ち、そこの婿入りになっているやら、話だけはよく耳にしている。
 つまり、お嬢様は屋敷に残る旦那様の唯一の子という訳になる。
 生まれてからずっと、旦那様の愛情をたっぷりそそがれている所為か、お嬢様は世間知らずで我儘だ。
 気まぐれで、大人に囲まれて育ったから口も達者だ。
 その気質には奉公人も手を焼いている程である。
 女中や乳母も、お嬢様の言葉にはいつも振りまわされている。
 しかし、旦那様の言いつけはきちんと守る子で、ひとりで屋敷の外に出たことは今までも聞いたことがない。
 首を傾げると、彼女らも最初は屋敷の中で隠れているのだと思ったと云う。
 だから朝餉を作りながら、あちこちを手分けして探した。
 女将さんの部屋まで探したところで、ようやく事の大きさに気が付いたと云う。
「どこにもいやしないんだよ。もう、外に出た以外にはね」
「お嬢様はこの辺の土地勘があったかな」
「あるわけないじゃないの」
 女は、目をきっと吊り上げて、首を大きく否定に降った。
 お嬢様は、今年の夏に五つになったばかりだ。
 近頃、車の往来も増えた通りは、子供が一人で歩くのには危険が多すぎる。まだ朝早いのが幸いだが、江戸の街はせっかちだ。冷たい汗が背中に落ちる。
 竈の火はごうごう燃えている。
 女の顔は青白くなるばかりだった。
「いま、手が開いている奉公人にも声をかけているとこだから、金松さんも捜しておくれ」
「それ、旦那様には、」
「云えるわけないじゃないか。すぐに捜しださないと、あたしら全員の首が飛ぶよ」
 お嬢様がいなくなったと知れば、旦那様は大層不安に思うに違いない。
 その不安は、何故誰も止めることができなかったのか、と奉公人に飛ぶ。
 常日頃からお嬢様の世話を頼まれている我らの責になるのだ。女の言葉に誇張したところは何もない。
 もし、お嬢様に危険なことが訪れていたら。
 首どころか、国に帰るのも危ういかもしれない。
「旦那様には、お前たちに使いを出したと云っておくから。帰りはてきとうに米や味噌なんかを買ってきておくれ」
「いいのかい。こないだ買ったばかりだろ」
「金松さんが喰っちまったってことにすればいい」
「ひでえや」
 思わず云うと、やっと女が笑う。
 普段から笑顔の絶えない屋敷だ。旦那様の人柄が奉公人にも表れている。
 ここから離れることになったら、困る。
 我は頷くと、着物の裾をここぞとたくし上げた。

 奉公人が寝泊りする部屋に急ぎ、まだ残っていた者達に声を掛ける。
 店を開ける支度をしていた兄貴にも説明をすると、彼らも血相を変えて指示を出した。
「そりゃあ、たいへんじゃねえか。おまえら、絶対に見つけ出せよ」
 そう真っ先に云ったのは、我も贔屓にして貰っている幸吉の兄貴だった。頭がいい兄貴は、物事を見極めるのもはやい。
 兄貴達は、店先で旦那様の気を反らすことを引き受けてくれた。
 女将さんには、すでに乳母がついているらしい。
 手代の兄貴に指示を受け、我も幾人かの小僧を連れて外に飛び出した。

 おらは日本橋へ、じゃあおいらは両国橋の方へ。
 てんでばらばらに別れた奉公人達を背に、我は近くの道を覗きむことにした。
 木戸より外に出ているとは考えにくいが、あの子は何をしでかすかわかったものではない。案外近くにいるのではというのが我の密かな考えだった。

 我は以前、旦那様が贔屓にしている壺にヒビを入れたと、お嬢様に泣きつかれたことがあった。
 屋敷の中で遊んでいたら、転んでぶつかったらしい。
 代わりに謝りに行った我を、旦那様は怒らなかった。
 賃金から差し引かれることもなく、少ない持ち物を質にいれるつもりだった我は大変温情を受けたことになる。
 鷹揚に見逃して貰えたのは、旦那様が背後で見守るお嬢様の所為であることを見抜いていたからだろう。結局お嬢様にも御咎めなしだったと聞いているから、旦那様は娘に弱い。
 だが、次に盆栽の罪を被った丁稚は、お嬢様に目撃証言を実しやかに語られ、隣町へと同じ物を捜しに行く羽目になったと聞いたことがある。
 箱入りお嬢様など、高級な骨董品よりも性質が悪い。
 嘆息しながら、我は必死に、五つの足でどこまで行けるものなのだろうか考える。我がその位の頃を思い出そうとしたが、よく覚えていなかった。指で数えるともう他国で奉公をはじめていたはずで、普段意識しているよりも彼女は鼻垂らし子供ではないことを実感する。

 道を隈なく捜し、物売りなどにも声を掛けた。
 どいつも五つくらいの子など見ておらん、と首を振る。中にはお嬢様を知っていて、たいへんだなあと笑う者もいた。あまり声を掛け過ぎると旦那様の耳に伝わるかもしれない。そう途中で思いつき、とっさに商人に小銭を握らせた。いらない品物を三つ四つ買う。
 味噌を買う銭を、貰い忘れた。
 そう気が付いた時、木戸に辿りついてしまった。
 ここの木戸は、番小屋が出ている。威勢が良い声で物を売っていた女将に近づくと、彼女は身なりで屋敷に検討つけたらしい。何かを云う前に、ぶっきらぼうな声でこちらに叫ぶ。
「五つの箱入り娘なんて通ってないよ」
 なんでも、先ほどから幾人もが同じ問いをしに来ると云う。ここは、屋敷から一番近い木戸だからしょうがない。
 迷惑がっている女将に頭をさげ、そこからも幾つか菓子を買った。
 懐に仕舞いながら、とぼとぼと戻る。
 幾人もここを訪れたのなら、既に見つかってのかもしれない。屋敷に戻れば、またいつもと変わらない屋敷が待っているのかもしれない。
 だが、ひょっとしてという思いが、走り回っていると云うのに汗一つかかせない。

 吐く息が、白かった。
 こんなに寒いのに、汗なんかかくはずないか。
 我は、つい先ほどまで空気が冷え冷えとしていることすら、忘れていた。

 我は、漸く手代の灯りが見えてきた所だった。
 こんなことで、職を失うのだけはどうしても避けたい。
 江戸の暮らしにも慣れてきたし、屋敷にも返したい恩がある。それに、今更稼ぎもなく国に帰っても家族に合わせる顔がない。
 あちこち目配せしながら歩いていると犬に吠えられた。この辺りは野良が多い。
 お嬢様は、犬が苦手だった。
 一時期、お上さんの指示で犬が増えた。
 道に歩いているのがいれば、お嬢様は駕籠から一切降りようとせず、旦那様の手を焼かせていると云う。それすらも許してしまうのが、親の性というべきか。屋敷ではどんな獣だって出入り禁止である。

 怖がってねえかな。
 そう思った時、ふいに、聞き覚えのある手毬唄が聞こえて来た。
 正月でもないのに、鞠。
 とっさに足を止め、その唄に耳を傾ける。
「まるたけえびすに、おしおいけ、あねさんろっかく……」 
 それは、江戸で流行っている唄とは違うものだった。
 京の唄だ。西の都は女将さんの故郷である。
 正月にはこちらを耳にすることが多く、奉公人は皆が知っている。
 だが、この辺りで唄を知っている者は多くはない。
 期待が、確信に変わる。
 足をそろりと動かして、音がする方へと顔を出す。その路地には寂れた小さな祠があった。

 その前で、上物の着物の娘が毬をついていた。紛れもない、お嬢様の姿だった。

 一気に押し寄せた安堵に、一瞬倒れそうになった。
 だが、気を引き締めて傍に駆け寄る。ここで逃げられたらたまったものじゃない。
「菊代お嬢様、こんな所に居ったんですか」
 声に気付いたお嬢様は、紅色の鞠をかかえて振り返った。
 胸に抱かれた、お嬢様のものにしては大きな鞠はお嬢様の宝物である。
 旦那様のツボや盆栽を割った原因ではあるが、勝手に取り上げるわけにもいかない。
 引きつりそうになった顔に笑みを乗せ、お嬢様と目線を合わせる。
 毬のように、頬が真っ赤に染まっていた。
 瞳にも、涙がいっぱいに溜まっている。でも、我の顔を見るとたちまち花開くように、彼女は、大きな笑みを浮かべた。
「地口の松じゃない」

 地口の松。
 それは、お嬢様だけが口にする我の渾名だ。

 以前の出来事でお嬢様が泣いているところに遭遇したのは、たまたまだった。
 その日は朝から店が慌ただしく、人手が足りない幸吉兄さんの使いで母屋の方に足を伸ばしたのだ。
 めそめそとするお嬢様の周りには、話し相手の乳母さえいなかった。
 そこで、とっさに思いついた洒落で彼女を笑わせた。
 ついたあだ名が地口の松。
 以来すっかり気に入られたらしい我は、顔を合わせるたびに新しい洒落を所望される。
 おかげですっかり我は物知りだ。近所から拾ってきた瓦版で洒落を考えている姿など、学者のようだと方向仲間にはからかわれる。

 好かれているのが、好都合だった。
 そんな思いでなるだけ優しく語り掛ける。
「菊代お嬢様、一緒に帰りやしょう。急にいなくなったんで、皆心配してやす」
 手を着物で拭ってから、小さな手を取ってやった。
 だが、我が立ち上がった瞬間、その手は振りほどかれてしまった。詰めた距離がまた離れる。
「嫌よ。だってあたし、戻りたくないもの」
 いつもの我儘だ。ため息をつきたくなる思いで、小さな手を見下ろす。
「お嬢様、そんな」
「いくら松の頼みでも、それは聞かない。あたしは帰らないわ」
 お嬢様の乾きかけていた瞳に、再び潤みが増した。
 慌てて懐を探ったが、手ぬぐいの一枚も出てこなかった。代わりに、先ほど買った菓子が出て来る。
 とっさに、振りほどかれた方の手にそれを握らせる。するとお嬢様の紅い頬は河豚のように膨らんだ。
「松もあたしを子供扱いだわ」
「いや、そんなつもりは……」
「屋敷の外も歩き回れない子供だと思っているのでしょう。お父様もお母様も、大嫌い。幸吉さんも、一番嫌い」
「幸吉の兄貴?」
 ふいに出て来た名前に、首を傾げる。
 我に仕事を与える手代の兄貴の名だ。聞き逃すことも出来ずに、お嬢様の顔をただ見つめる。
 その視線に気がついたお嬢様は、毬を抱えるとこちらにうなじを見せた。
「幸吉さんが謝るまで、あたし、帰らないの」
「それはまた……」
 兄貴は、頼れる優秀な手代だ。
 我ら丁稚にも親切にしてくれるし、いろいろな知識を惜しみなく下さる。近々番頭に昇格する、なんて噂もあるほどだ。
 幸吉の兄貴は、屋敷にこもりがちなお嬢様の、乳母に次ぐ第二の話し相手でもあったはずだ。
 お嬢様が生まれる前から店にいる彼は、彼女にとっても兄のようなものだろう。
「幸吉の兄貴と、なにかあったんで?」
 しかし、兄と思っているのは周囲のみ。お嬢様当人は、どうやら幸吉の兄貴を好いているらしい。
 幼い恋は子供の遊び。付き合う奉公人の暗黙の了解に気がつかないのは、本人達のみ。
 だからこそその名に驚くと、振り返ったお嬢様は唇を尖らせて、大きな毬に顔を埋めた。
「幸吉さんったらね、郷里に想い人がいるんですって。番頭になったら、江戸で一緒になるつもりなのよ」
 大人びた調子で云った。
 大人に囲まれて育ったお嬢様は、時として、こちらが驚くほど色ある顔をすることがある。
 ここに女中らがいたら、生云っちゃって、とからかいの種になっていただろう。
 我はもう一度膝を曲げて、お嬢様と同じ目線になる。
「それは、悲しゅう御座いますね」
「だからあたし、お父様に幸吉さんを番頭にしないでってお願いしたの。そうしたら、そうしたら……」
「旦那様に、叱られたんで?」
 お嬢様はこくりと頷いた。それで外に飛び出したらしい。
 泣いている理由も、行方知らずになっていたのも、全てそれが原因のようだ。

 旦那様は娘に甘いが、仕事には厳しい。
 もちろん、優しい旦那様はむやみに怒鳴り散らすなどはしない。だが、旦那様のやり方を邪魔したり、ケチをつけたりしたら、鬼が降りる。そうして江戸で商売ができなくなった阿呆共を丁稚の我でも幾人か知っていた。
 普段穏やかな人なだけに、旦那様が怒ると怖い。
 普段甘やかされているお嬢様にしたら、余計、恐ろしくなったのだろう。
 とは云え、原因が旦那様にある以上、お嬢様が抜け出したのは奉公人の責と云うことにはならないだろう。目を離した女中らは叱られるかもしれないが、少なくとも丁稚達は無事である。叱られた分は、女が喜びそうな菓子を兄貴に探してきてもらうのが一番である。
 今度こそ安堵で、その場に膝をつきそうになった。
 しかし、まだ仕事が残っている。両足を踏ん張り、お嬢様に向き直る。
 我らは無事でもお嬢様の心中は穏やかではないままだ。

 好いていた兄貴には想い届かず、平素は甘い旦那様にも叱られ、さらに、滅多に出ない外の風景は心細い。幾つにも重なった不安で瞳は絶えず潤んでいる。
 鞠を両手で抱きしめている姿は、五つにしては小さくて脆い。
「菊代お嬢様、こんなの知ってやすか」
 意を決めて云う。
 丁度、新しいのを仕込んだばかりだったのだ。
 お嬢様がこちらを向くのを見計らって、我はとびきり滑稽な顔を作って云う。
「河豚は食いたし、命は短し。たすきは長し、歩けよ乙女ってな」
「ふふ、なあにそれ」
 お嬢様の顔が、ぱあ、と明るくなった。しめたと手を握る。
 今度は振り払われることなく、立ち上がることが出来た。
「どうせ短い浮世ですから、何があっても謳歌せってことです。お嬢様も歩いていたら、すぐに兄貴以上の色男と出会えますよ」
 河豚を食おうが、恋に敗れようが。
 日々は続く。
 命は尽きる。
 ならば、いっそ、短いつもりの命でどんなことでもやったらいい。
 そんな思いで口にした洒落は、落語家や芸人のように頓智が効いたものではない。だが、お嬢様を笑顔にすることは出来た。
 
 お嬢様から鞠を引き受け、繋がったままの手を引く。
 彼女は少しだけ躊躇をしたが、やがて大人しく歩きだした。
 お嬢様に歩調を合わせて慎重に足を運ぶ。
 路地は屋敷からそう離れた場所でもなかった。行きは慌てていたから見落としていたのだろう。聞けば、女将さんと散歩で歩いたことがある道を来たのだと云う。あの祠の前で手毬唄を教わったと彼女は得意げに告げる。
 お嬢様は泣きやむと、先ほどやった菓子を口にいれた。小さい口が砂糖菓子で丸くなる。
「松も食べなさい」
「へい」
 残りを差し出され、我も口に入れる。久しぶりに口にした飴玉は、じんわりと舌に甘みを広げる。
「松、おぶって」
「へい」
 小さな手が肩をつかむ。もう泣いてはいなかったがぺたりとひっついてきた身体は熱かった。
 やはり、小さい。
 沈黙は、お嬢様が大人になった証拠だ。大人しく、我の足が屋敷に戻るのをそのままにしている。
 もしかしたら、菓子の分け前は礼のつもりなのかもしれない。

 ペタペタと、我の草履の音が響く。
 不思議なことに、帰り道は町人や犬にも会わなかった。
 誰もいない通りに我の足音だけがペタペタと響く。
「願ったり叶ったり、晴れたり曇ったりの女心ってか」
 ふと呟いてみたが、反応はなかった。
 疲れて眠ってしまったのかもしれない。だがそれでも、我は、小さな声で幾つかの洒落を続けた。
 お嬢様が夢の中で笑ってくれたら、それでいい。
 屋敷に戻ったら兄貴が店を開けるのを手伝って、それからまた力仕事が待っている。
 国の家族のために、そして、江戸の家族のために我は、今日も忙しい。
「命短し、恋せよ乙女……」
 最後に呟いた時、安堵に崩れ落ちた奉公人達の姿を捉え、我はとびっきり滑稽な笑みで彼らに手を振った。


 数日後、幸吉の兄貴は噂通り番頭に昇格した。
 前の番頭は独立して大坂で商売を始めるらしい。
 二人を祝福する宴では、我も新しい地口を幾つか披露した。
 幸助はん、と呼ぶと兄貴は朗らかに笑った。そして、我のことを金七どんとふざけたように呼ぶ。
 我も、旦那様に気にかけて貰い手代の任を頂いたのだ。
「地口の松が、地口の七になったわ」
 或る日、店先で支度をしている所に、お嬢様がやってきた。
 相も変わらず大人びた口調と、大きい瞳をしている。
 中身が少しだけ大人に近づいたのは、我とお嬢様しか知らないようだ。密やかな笑みを交わすのはまるで共犯者のようで面白おかしい。

 兄貴の婚礼は、来月だ。
 お嬢様はどうやら、兄貴の嫁さんに贈り物をしようとしているらしい。最近は、毎日せっせと花を編んでいる。
 今日もその道具を持ってきて、お嬢様は我の横に腰かけた。
 店先は静かで落ち着くのだと、彼女は番頭台に居座るのが習慣となっていた。尤もそれは幸助の兄貴がいるからだが、いまは奥で作業をしていて店には我の姿しかいない。
「知っていた? 幸助さんは子供ができたんですって。男の子が生まれたら、たくさん遊んであげるのよ」
「そりゃあ、良い」
 つい丁稚時代の癖でそこらを磨きながら云う。それを見たお嬢様は小さく笑うと、兄貴もいつもそうだったと教えてくれた。
「兄貴も?」
「幸助さんも、丁稚に任せればいいようなことを進んでやっていたの。あたしはそれを見てたいらね、いっつも御稽古の時間に遅れちゃうの」
 顔を綻ばせるお嬢様は、話し相手がいなくなって少し寂しそうであった。旦那様も、最近はあちこちに飛び交っていて忙しい。この店もこれからどんどん大きくしていくつもりなのだ。
 我は品物を磨く手を止め、お嬢様にほほ笑みかけた。
「地口の七でも、丁稚時代と何ら変わりませんよ」
 名前が変わろうが、身分が変わろうが。
 我は旦那様の為に、そして、家族の為に働く。それだけだ。
「兄貴だって、お嬢様を大事に思う気持ちに、変わりはありませんよ」
 奉公先のお嬢様だからというだけではない。
 それは、恋ではなかったかもしれない。しかし、恋だけが思い合うことではないのだ。
 そう思えるようになった我も、大人になった証だろうか。ぼんやり考えていると、ふいに、お嬢様が居住まいを正した。
 歳のわりにしゃんとした口調で、彼女は云う。
「それは困るわ。幸助さんは、お嫁さんとお子をしっかり支えないと。家族をないがしろにする殿方は、お父様のようにはなれないのよ」
「はは、お嬢様も仕事には厳しい」
 兄貴の子供が大きくなる頃には、お嬢様もこの家を出て行く年頃だろう。
 江戸の五年があっという間だったように、月日は矢のように過ぎて行く。
 何だか寂しいのが、我にまで伝染したようだ。切なさを押し殺して、さっと笑う。
 店の顔は、兎に角笑っておけ。そう兄貴に教わっていた。
「貴方の子もきっと元気な男の子よ。そうしたら、いっぱい遊んであげるわ」
 お嬢様が云う。器用に指を動かして冠を作る横顔は、もう幼いばかりではない。
 布を拾い上げ、再び辺りを磨き始める。
「我は、郷里に想い人はいませんよ」
 そう呟くと、お嬢様は一寸だけ手を止め、再びゆっくりと動かし始めた。
 横顔は、笑っている。
「ふうん。なら、当分はあたしに新しい地口を教えてくれるのね」
「ええ。もちろんです」
 丁稚が、庭に蒔く水を運んできた。急に喉が渇いて桶に手を入れる。掬う前にその冷たさに身体が跳ねて、お嬢様に笑われた。
 そうしている間に兄貴も来て、店を開く準備が整った。

「金七さん」
 邪魔にならぬように立ち上がったお嬢様は、最後に我を呼びかけた。
 小さな手を、我に向かって伸ばす。
「さっき云ったこと、約束よ。指きり」
「へい」
 ゆびきりげんまん、嘘ついたら……。小さな声で歌うお嬢様は満足げに笑うと、奥へと戻って行った。
「女と契りごとなんて、男があがったなあ」
 兄貴がからかうように云ってきた。
 結婚を控えた兄貴は、ここ最近ますます忙しそうだ。
 いつかは我も、なんて思う。
「植木屋の地震だなあ、こりゃ」
 小さく呟いた声に、返事はない。

いいなと思ったら応援しよう!

伍月鹿
応援お願いします🦌