【創作BL】相看て厭わざるは只有るふたつ
あらすじ
黒社会。そう呼ばれる組織には、代々受け継がれる宝玉がある。宝玉を護り続けること。それがすなわち、組織を護ることとなる。
中華系組織の若きボス、ディアは、盗まれかけた宝玉を護るために非道な選択を決意する。煌びやかな晩餐会の裏に隠された彼らの計画とは。
創作BL『月下 花間 二人酌』の設定とキャラクターを使ったマフィアもの。以前公開していたものを加筆修正しました。
皓々と揺れる水面は、見ているこちらを惑わすようだ。
目の前に広がるのは、底がある奈落。
どこまでも墜ちていくように見えて、そこには果てがある。果てがあるならば、いつかは頭をぶつけるだろう。だが、その底を見た者は少ない。
ほ乳類である我々は、水の中で息ができるような仕組みは持たない。
原始的な存在であったとき、我々は羊水と呼ばれる液体の中で暮らしている。だが、この世という荒波に生まれるため、肺というやっかいな代物を体内に備えるようになる。
肺を得たほ乳類は、外界の空気を取り込むことができるようになる。
大事な要素だけ取り分け、血を作り、肉を支える。それらは生命を維持させ、身体を成長させる。
身体という、檻ができる。
身体の中には、堕落した果実が存在する。
水の世界と引き換えに得る、魂と呼ばれるあまりにも重い果実。
果たして、それは、本当に原罪や知恵と啓示の象徴なのだろうか。
港は危険な空間だ。
人間が太刀打ちできない自然と、人工物の狭間に存在している。海を制御しようとした人間と、それを凌駕する自然の闘いが、常に目の前で繰り広げられている。
わたしは取り留めのない思考のまま、揺れる髪を海風に遊ばせた。
角に垂らしたランプが、揺れる度に音を奏でる。耳を傾け、海の声を錯覚する。
遠くの船が、鈍く重たな声を出した。独特な響きは身体を震わせ、佇むわたしたちを怯えさせた。
「ディア、危ねえぞ」
飛んできた声に、足元を見る。
あと数歩踏み出せば、わたしも海に落ちる距離だった。
自らを、危険な場所に立たせることができる者は、道楽者というらしい。
危険を楽しめるという意味では、間違いなくそうだろう。
危険を楽しむ余裕がある者は、不思議と、支える手も数多なものだ。自らの境遇に苦笑いしながら、乱れた髪をようやく整える。
「平気だよ。今夜は風もなくて、暖かいな」
「この季節にしたらな」
振り返った先で、右腕と呼ばれる男が顔をしかめていた。彼は口を殆ど動かさないまま、唇の間から声を漏らす。
「寒いものは寒い」
大げさに身を震わせたプチグリは、首をストールで巻いていた。簡単に外套を羽織っただけのわたしとは大違いである。
ぐるぐる巻きのストールは、急所を隠すのに役立っている一方で、首の可動域を狭めている。機能性よりも、防寒性を重視したようだ。
「立派なカシミアに見えるが」
呆れて笑うと、彼はますます眉間に皺を寄せた。
プチグリの手首は、念入りに綿が入った外套でしかと隠されていた。かろうじて外に出ている耳は真っ赤で、その冷たさは、触れずにも感じることができる。
時折はためくストールは、闇夜に黒く塗りつぶされていた。確か、鮮やかな緑色だったはずだ。そういうところが彼はとても律儀である。
そんな彼は、首を、というよりも頭を大きく傾げ、ストールに頬を埋めた。
向こう側の埠頭に、外国の客船が停泊していた。
そこでは、この季節らしい乱痴気騒ぎが行われているらしい。漏れる灯りがこちらまで、下卑た色を伸ばしてくる。
今夜は月も見えない。わずかな灯りの中、プチグリは不機嫌な声を出した。
「表通りの市場で買ったんだ」
「市場が何か?」
歓声、嬌声、叫び声、狂気じみた狂喜。
こちらに届く下品な音に、会話が途切れる。
またどこかで鳴った汽笛のあと、プチグリはぼそぼそと告げる。
「羊頭狗肉だ。本物かどうかはわからない」
「君は騙されたのか」
「さあ」
表市場は、政府の管轄だ。
我々のようなものを排除した街だ。見た目は裏社会に比べれば清潔だが、管理がずさんで、金儲けしか頭にない連中の餌食になっている。
知らないうちに外国の店も増え、この国では見ない角を持つ者が堂々と行き来をしている一帯だ。得体の知れない者が売る、どこで作られたのかもわからないもの。
そんなものが土地を汚そうが、政府は知らぬふりをしているようだ。こちらの良識では、考えられないような暴挙である。
右腕は揺れる豪華客船に目を向けて、どこか遠い目をして呟いた。
「本物だと思っているうちは、騙されたうちに入らねえ」
彼が、吸いかけの煙草を海に捨てる。
煙草の火は、微かな音を立てて、水面で消えた。軽い紙巻きは沈むこともなく、ぷかりと眼前に浮かび上がる。
もし、もっと明るければ、煙草が屑となって海に広がるのも目にできただろう。品のない光景を見るのには、ここは少し暗すぎる。
「なるほど。羊頭狗肉、ね」
「消耗品を仕入れるのにはもってこいってこった」
「君にとっての防寒具は、消耗品かい」
「どうせ、すぐ濡れるだろ」
血で。
そう言って、彼はようやく視線をこちらに戻す。いつの間にか浮かべられていた笑みに、わたしも思わず相好を崩す。
「まあ、プチグリにとってはそうか」
動きが制限されることがあっても、彼は、彼のままだ。いざとなれば、小さな煙草同様に、重たい枷も、躊躇いなく海に捨てるのだろう。
同意をしたわたしに、彼は、目を丸くしてみせた。
その意外な反応に首を傾げたが、その疑問はすぐに解決された。
沈黙を保っていた水面が、ふいに、波を立てた。
異質な揺らめきが、反射する灯りを歪めさせる。意思を持つものが、こちらに近づいて来る。
向こうの船で、オーケストラが新しい曲を始めていた。ここで待ち始めたときは、前の曲が流れ出したころだった。
彼は、その数分の間、ずっと海の中にいたことになる。
空になった肺が、彼の身体を蝕んでいるはずだ。
だが、こちらに向かってくる動きは正確だ。慌てた様子もなく、悠々とさえしているような、規則的な動きだ。
闇が沈む水面が、彼の手によってかき乱されていく。
やがて、見下ろす水面から、彼の弓を描く角先が姿を見せた。
「おっせーよ」
頭がすべて出たタイミングで、プチグリが吠えた。
その声は人気のない埠頭に響き、張りつめた空気を切りつけるかのようだ。吐いた息が白いと、ようやく気がつく。
肺なんて、完成されなければ良かった。
そんな空洞を抱えているせいで、人は、ときに厄介なものを、胸に抱え込む。
声に反応するでもなく、節が目立つ長い指が、岸を掴んだ。そのまま、一息で身体を乗り上げる。足元に水滴が飛んで、数歩、遠ざかる。
蹲った彼の背は、暗闇であっても、くっきりと見ることができた。
闇夜に目が慣れたのだろう。
ゆらゆらと、笑いがこぼれる度に揺れる外界のランプが、やけに眩しく、眼孔を刺す。
息を整える彼の全身は、どこもがずぶ濡れだった。
飛び込む前に脱いだ上半身が、寒々しい。
事前にまとめた髪は、しっとりと首筋に張り付いていた。長い毛の先が、美しい軌道を持って艶めきを見せる。まるで、その先が、赤く色づいているのを、主張しているかのようだ。
広い彼の背には、暗闇でもはっきりとわかる文様が刻まれている。
本物の葉のように、鮮明な赤。
色は認識できない闇夜でも、形だけでわたしは、本来の色を思い出すことができた。
血のように赤い、紅葉。
海から拾ってつけてきたかのように、葉脈は彼の背で活き活きと濡れる。
髪が張りつく彼の首筋から流れるように描かれたそれは、腰のあたりまで続く。消えない傷跡のように、彼を縛り、引き立たせる。
「おかえり、ガゼル」
声をかけると、ガゼルは顔をあげた。
まだ息を乱してはいたが、浮かべられた表情は穏やかだ。
その晴れやかな顔に、目的は成し遂げられたのだとわかる。濡れた長い睫毛が雫を落として、涙のように彼の頬を濡らす。
翡翠のような瞳が、わたしを射抜く。どんな空の下でも、その海は色を変えない。
「ただいま、ディア」
たったいま、外界に戻ってきたばかりの彼の身体は、震えている。なのに、その笑みは確かに熱を帯びていた。
炎のような、熱。
それは、果てを見てきた者の鬼のような笑みだった。
海風が、身体を揺らす。
見せかけの奈落が、足元で小さな波を立てた。
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