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輝く月のように…

~そこに在る意味~

1ヶ月ほど前になりますが…
9月29日は、お月見でしたね。
保育園ではお月見団子作りをしたり、お供えの食べ物も見たり、お月見の文化に触れています。
その日は、保育園の玄関先にいると、「おつきさま、みえるかな~。」と、お家の方と帰っていく子どもたちの姿があり、ほっこりした気持ちになりました。

 月はいつもと変わらず、ただそこに在るだけなのに、見ている私たちの気持ちによって、「そこに在る意味」が変わってくるから不思議です。
満月の見事さに、何だかパワーをもらった気がする人は多いかなと思います。
もしかしたら、街灯の少ない暗い夜道で不安な時は、月の光にホッとしたことがあるかもしれません。
私は辛くて涙がこぼれそうな時、ふと見上げた月が滲んで、この悲しみを分かってくれたような気がしたことがありました。
力をもらったり、安心したり、励まされたりする。
だけど忙しなく歩いている時などは、そこに在る月に気をとめもしなかったりして…

先日、クラス担任同士で「見守る」について、それぞれの見解を話していました。
A先生は、一人ひとりの状況を把握し、その子の気持ちを捉えていれば、余計な言葉を掛けず静観すること。
B先生は、A先生がただ見ているだけに感じる。もちろん状況把握をして、子どもの気持ちを推測するが、やり取りをしなければ本当の思いは捉えきれない。見守るなかでのアプローチをすべきではないかと。

この話し合いを聞いていた私は、「月」に感じる思いと「見守る」がリンクしました。

何かに不安を覚え保育士を見た時に、声を掛
けなくても安心することがあるでしょう。
さらに言えば、保育士の存在を忘れてしまうほど、遊びや何かに没頭している姿があるのも良いことです。
そこにいる子どもが、ふと保育士を振り返った時にどのような思いを持つのか。「見守る」は、受け取り手である子どもが「見守られている」と感じることによるのだと思います。
保育の中で、もちろん保育士として様々なアプローチが大切ですが、時には輝く月のように変わらず、ただ「そこに在る意味」を先生たちが感じられると良いなと思いました。

子どもにとって、保育士という存在の意味を考えたり、自分はどうあるべきか見つめ直したり…本当に保育って、奥深く答えのないものだとつくづく思います!



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