常識ではなく良識を持つ
駐輪場に自転車が忽然となくなった
最近、在宅ワークの多い筆者。久々に駅の方へ行ったら、駅前の駐輪場に何やら黄色いテープとロープが張り巡らされている。中の自転車はきれいになくなっていて、1台も止まっていない。
実はこの駐輪場、最近できたばかりだった。タイヤを車止めにロックすると料金が発生し、電子マネーで精算するタイプ。駅のすぐ隣というのに、料金もそれなりに良心的。小さな子供を乗せる椅子を設置した大型自転車も数多く止めてあったから、保育園などへの送り迎えのある会社勤めの親御さんにも重宝されていたに違いない。それが数か月ぐらいで閉鎖されてしまったのだから、利用者にとってはたまらないだろう。
黄色いテープのところどころにお知らせが貼られていた。それには、一部の人が通路など車止めのないところに停めて、料金を支払わずに利用していたとある。何度警告しても、その数が減るどころか、増えていく一方だったので、やむを得ず閉鎖したとのこと。再開時期は未定とあった。
マナーを守らなかった人の中には、他の駐輪場に行く時間がなかった、という理由もあるのかもしれない。だが、それらの多くは狭い通路をふせぐ形で停めてあった。だから、閉鎖のお知らせをみて、納得してしまったと同時に、なんとも残念な気持ちになった。
SNS上で拡散される愚行
この駐輪場のことを知る少し前から、飲食店で悪ふざけした様子をSNS発信しているニュースがたびたび報道されていた。聞いていて、なんとも不快な気持ちになるものばかり。
せっかくコロナ禍をなんとかしのぎ、お店を再開するようになってからも、感染拡大防止に、それこそ店側は細心の注意を払ってきたはず。その努力もむなしく、一部の人たちの悪ふざけ、それも一番注意を払ってきたはずの衛生面を傷つけられるようなことをされては、たまらなかっただろう。
余談だが、こうした愚行行為の写真や動画をネットに上げる行為を「バカッター」というのだそうだ(知らなかった…)。「気持ち悪い」「お店に行きたくなくなる」「食べたくない」といった声も多くあがっており、筆者も店側には申し訳ないが、そういう気持ちを抱いてしまった一人である。
久しぶりに聞いた言葉とは?
先日の朝のラジオ放送で、このニュースについてどう思うか街の人たちへインタビューした様子が紹介されていた。インタビューでは、愚行した上に、それをネット上にアップした若者への批判などもあったが、最後に紹介された二人(いずれも声の感じから50代ぐらいの男性)は少し違った角度からの意見だった。
曰く「そういう若者を育てた社会も悪い」と、若者の親のみならず「親世代の我々の態度が、若者の悪行を許してきているのではないか」という意見。若者が育ってくる過程で、そういうことをするのは「恥ずかしい行為」「人としてやってはならない行為」であることを示せていないのではないか、と社会全般を問うたものだった。
そして最後の一人は「良識が問われている」というもの。「いまの社会に良識というものがなくなってきてしまっているのは、我々世代にも問題があるのではないか」。この「良識」という言葉に、コメンテーターも「良識。久しぶりにこの言葉を聞きましたね」と感想をもらしていた。
常識ではなく、良識。
翻って我々は、果たして良識を携えているのだろうか。
社会に出て一定の期間をすぎれば、多くの人々がいろいろな経験を積み、時には怒られつつ、そこから学び、常識として足りなかった部分が徐々に補われていく。しかし、良識はどうだろう。
そもそも常識と良識の違いをきちんと言えるのだろうか。恥ずかしながら、いま説明してみなさい、と言われたら、違いをわかりやすく説明する自信はまったくない。なんとなく体ではわかっているけれど、言葉にできない、そんな感じだろうか。
「コトバンク」によると、
「常識」は、端的にいうと「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」のことであり、
「良識」は、「物事を正しく判断する能力。時として理性と同一視される」だという。
常識に内包される良識
さらにわかりやすかったのが、任天堂のサイトだ。ここでは、常識は良識の中、つまり常識を構成する1要素だと説明している。つまり、常識とは、知識・良識・見識の3つの要素からなるのだして、「良識」の上になる「見識」までの3要素が説明されていた。個人的には良識もそうだが、「見識」という言葉はもっと聞かなくなったように思う。
同ページにある日本常識力検定協会代表理事で立教大学名誉教授・文学博士の水口禮治氏の説明をもう少しみていきたい。
「常識」とは、「社会の潤滑油の役割を果たし、人間が社会で生きるための最低限の必要条件と言え」るとし、「 これを欠いては、どこかで、誰かに、何らかの点で迷惑をかけたり、不快感を抱かせたりして、結局、当人の評判を落とす羽目になる」と説いている。
つづく3要素の説明では、
「知識」とは「社会を自立的にたくましく生きるための基礎的要件である『読み・書き・ソロバン』と『衣・食・住』の対応行動」とし、
「良識」は「倫理・道徳観に根差した人間性」のことを指し「いつでも、どこでも通用する人類普遍の原理ともいえるもの」であり、
「見識」とは「文化に根差した安定した行動様式、すなわち礼儀・作法・エチケット・言葉遣い・しぐさ」を指し「社会を美しく生きるセンス」だと説いている。
そして、知識→良識→見識の順に身に着けていき、「人間として社会を堅実に生きる基本的な力を『常識力』という」としている。
これらを支えているのは、一人ひとりが自分の行動を振り返って「恥ずかしい」「はしたない」と思うかどうか、あるいは「そういうことをしない」ようにするかどうか、ではないだろうか。
訳の分からない方向へ進んだ教育
筆者の場合でいうと、子供の頃には、立派な大人になるように、また、将来子供たちのお手本となる行動がとれるように、というしつけが学校でも家でもなされていた。周囲も同じようなしつけを受けていたように思う。中学・高校に進学しても、年相応の行動を取れないと「はずかしい、いくつになったの?」と先生や親からたしなめられたり、「はしたない」とその行動を咎められたりしたものだ。
ちょうど筆者が大学生の頃に「日本人は堅苦しい」「もっとアメリカのように自由に」といった気風がより強くなったように思う。その後はどんどん、「型」が崩れていったように感じる。学校では、しかってはいけない、順位をつけてはいけない、競争してはいけない…よくわからない教育方針が文部科学省から出され、現場の先生方が一番振り回されたことだろう。
さらには、給食費を払わない、そのことを言われると逆切れする親もいる、といったニュースが世間をにぎわせたこともある。そういう姿を見て育てば、「なんでもいいんだ」「なんでもアリだ」などと解釈してしまう子だって、出てきやすいだろう。
むろん、昔から羽目をはずす若者はいた。いつの時代も、それは変わらない。昔は良かったとか、昔のほうが優れていたというつもりは毛頭ない。だが、恥ずかしい、はしたないといった言葉は次第に聞かれなくなっていったと思うのは、筆者だけだろうか。
適度な緊張感を持って
マナーを守れない自転車置き場の一件しかり、愚行を愚行と思わずSNS発信してしまう行為しかり、「そういう人っているよね」とため息をついて終わり、という範囲をもはや越えているように思う。
回転ずしなどを安心して楽しめるのも、衛生管理がしっかりしていて、人々のマナーもしっかりしていたからこそ。当たり前のように楽しんでいた食が特別な場になってしまうのではなく、これからも、当たり前のように楽しめる場であってほしい。
そのためにも、他人事ではなく、自分の姿も若者や子供たちに見られているのだという、良い意味での緊張感が必要であろう。
緊張感といえば、子供の頃は両親、とくに母親が外出時に緊張しているのを感じて、息苦しくて嫌だった。だがそれが、子供ながらに「お出かけは近所で遊ぶのとは違う」と感じ、「外では迷惑な行動を取ってはいけない」「子供だからって許されない」という緊張感に繋がっていたように、今では思う。こうした緊張感も、大人が持つべき常識の一つなのかもしれない。
<参考URL>
任天堂DS
コトバンク
※冒頭の画像はphotoACより