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3代将軍徳川家光に献上した伊東温泉・和田寿老人の湯



創業はなんと400年以上前!

 本日(2024年7月8日)付けの伊豆新聞1面に、「入浴200万人『ありがとう』」というタイトルの記事が掲載されていた。伊東市竹の内にある共同浴場「和田寿老人の湯」(通称・和田湯。以降、和田湯と記す)の入浴者数が7月に200万人を突破したのだという。
 いつから記録を取り始めたのかは記載されていなかったが、こちらの共同浴場、創業は400年以上前の慶長3(1598)年とかなりの歴史を持っている。
 しかもこちらの湯は、慶安3(1650)年に3代将軍徳川家光にも献上したことがあるという。徳川家といえば知る人ぞ知る温泉好き。それが伝わったのか、家光もまた温泉を愛していたらしい。

徳川家康は温泉を愛するあまり熱海での湯治や湯の献上まで

 家光の祖父にあたる徳川家康は熱海へ湯治に何度も出かけているほか、江戸まで湯を運ばせてもいる。家光もまた、寛永元(1624)年に熱海に湯治目的の別荘を建てているが、実際に来ることはできなかったという。
 その代わり、湯樽を江戸まで運ばせて温泉に浸かっていたのだ。松田忠徳氏の著書『温泉はなぜ体にいいのか』(2016年11月発行、平凡社)によると「小田原城主稲葉氏の『永代(えいだい)日記』には次のような記述がある。『正保(しょうほう)元(1644)年10月5日 幕府老中より箱根木賀温泉へ、湯樽2つ届く』」
 温泉が入った樽は封印され、封が切れないように運ぶことが最も大事とされたという。しかし、熱海の湯が献上されるようになるは寛文2(1662)年4代将軍家綱の時まで待たなければならない。ということは、伊東の湯は熱海よりも前に献上されていたことになる。

熱海より伊東が先行していた湯の献上

 和暦だと分かりにくいため、これらを西暦で並べてみると、家光が熱海に別荘を建てたのが1624年、箱根の湯を献上させたのが1644年、伊東の和田湯が献上されたのは1650年で、熱海の湯が献上されたのは4代将軍家綱の時で1662年の順になる。
 熱海は幕府の直轄だったこともあり、家康は何度も当地へ湯治に訪れている。その家康を崇敬していた家光も、実際に足を運ぶことはなかったとはいえ熱海に別荘を建てたくらいだから真っ先に選ばれるのは当然、熱海の湯かと思いきや、伊東の温泉だというから不思議だ。江戸からは熱海より伊東のほうが遠く、距離の面からも、熱海が選ばれても良さそうなのものだが。

伊東七福神の湯で最古の「和田寿老人の湯」。
建物の左側には「寿老人」の石像がまつられている。

運搬は海路?それとも陸路?

 湯の運び方も伊東と熱海では異なる。
 熱海の湯は4代将軍家綱の時に江戸へ献上されているが、「お湯は樽に詰められ、屈強な担ぎ手によって次々と運ばれていった」(『温泉主義no.4』編集長・松田忠徳 くまざさ出版)「1樽に4人の人足と手明きの者2人がつき、箱根の山をくだった」(前掲『温泉はなぜ体にいいのか』)とあるから、運ぶルートは陸路が使われたようだ。
 対して和田湯は陸路ではなく海路を取っている。既に海路を取った実績があるのであれば、熱海もそれに倣いそうなものだが、険しい箱根の山を越えなければならない陸路を選択したのはなぜか。陸路より海路を取ったほうが、はるかに早く江戸に着きそうだが、当時はどうだったのだろう。
 熱海の湯は、陸路で15時間かけて運ばれたそうだ。出発時に約90度もあった源泉温度は、江戸に着くころには適温になっていたという。到着時に適温になっているかどうかも、陸路を取った理由の一つなのだろうか。

至る所にある伊東市内の共同浴場(銭湯)

 ところで家光に献上された伊東の和田湯、泉質は単純温泉でリウマチ、神経痛、運動機能障害、疲労回復に強い効能があるとされている。こちらではタオルも販売しており(石鹸やシャンプーなどはない)、ふらりと入ることも可能だ。徳川家光も愛した湯に浸かって、旅の疲れを癒すのもいいかもしれない。
 このほかにも伊東市内には昔ながらの共同浴場(銭湯)が10ヵ所くらい点在しており、そのすべてが源泉かけ流しの温泉だという。そのうち、和田湯も含めた7つの銭湯が「伊東温泉七福神の湯」となっており、温泉の前には弁天様や大黒天人様などの石像がまつられている。

和田湯は「伊東温泉七福神の湯」のひとつ。
入り口の横には健康長寿をもたらしてくれる寿老人(じゅろうじん)の石像がまつられている。
俳人・種田山頭火もたびたび和田湯に入浴したのだそう。

 ちなみに昨年(2023年)7月15日の海の日には、徳川家光に献上していた史実にちなみ、湯をヨットに乗せて東京へ運ぶ催しが開かれたようだ。今年も開かれるのだろうか。だとしたら、楽しみである。

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