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秋桜と書いてコスモスと読ませるのは歌がきっかけ?


 秋の桜と書いて秋桜(コスモス)。この花を初めて見たのは、小学5年生の夏休み。八ヶ岳の乗馬クラブと牧場を併設する民宿の前に咲いていた、可憐なピンクの花を思い出す。

 こんなにキレイな花があるんだ、と感動したのを覚えている。と同時に、風に揺れる可憐な花とは対照的に、根元に行くほど太く、たくましい茎と、細くとがった形の葉に、何とも言えないたくましさを感じたものだ。

歌のタイトルがきっかけ

 先日のラジオ『羽田美智子のいってらっしゃい』のコーナーで、秋の代表的な花の一つとしてコスモスが紹介されていた。そこで秋桜と書いてコスモスと読ませるようになったのは、山口百恵の歌のタイトルからだと初めて知った。

 コスモスは外来種のため、和名に秋桜という名がつけられている。読みはそのまま「あきざくら」である。それを「秋桜」と書いて「コスモス」と読ませるようになったのは、山口百恵の歌う、さだまさし作曲の「秋桜(コスモス)」からなのだという。

 実はこの曲、最初につけられていたタイトルは「小春日和」だったのだとか。この歌を聞いた当時のプロデューサーが「歌詞には漢字で『秋桜』と書いてあるのに、『コスモス』と歌って」いることに驚き、タイトル変更を提案したのだそう。

 さだまさし氏は同意したものの、「あきざくら」というタイトルに変更するものだと思っていたらしく、「秋桜」と書いて「コスモス」にしたのは、件のプロデューサーのアイデアだったらしい。歌のヒットに伴い「秋桜」と書いて「コスモス」と読ませるのが一般的になっていったという。リリースされたのは1977年(昭和52年)というから、この読み方が広まったのは、さほど昔ではないことに改めて驚く。

コスモスが日本にやってきたのは?

 メキシコ原産のコスモスは、ヨーロッパを経由して日本に渡来したと言われている。日本に入って来たのは、明治の中頃としているものもあるが、定かではない。調べてみると幕末(江戸末期)に渡来したとしている文献もあるようだ。

 「オランダ人が島津藩に持ってきたとされています。そして明治12年(1879年)には、東京美術学校の教師ラグーザが、イタリアからタネを持参し、これらのタネがもとになって」(『コスモス手帳』(稲津厚生監修 産研 1988)出典や文献の情報は見当たらず)広まったとしている。

コスモスで熱烈アタック?

 このラグーザなる教師、「明治9年(1876年)に工部美術学校にイタリアから赴任してきた彫刻家」であり、美術学校で出会った少女、玉(当時16歳)のために西洋種の珍しい草花を持って通っ」たとある。その中の一つがコスモスだったという説もあれば、「玉のデッサン指導のため種子を日本に持ち込」んだとしている説もある(『ラグーザ・玉 女流洋画家第一号の生涯』)。

 もしもコスモスの花束を持って熱烈にアタックされたとしたら、なんとロマンチックなことであろう(玉はのちにラグーザの妻となり、イタリアへ渡っている)。個人的にはバラの花束をもらうより100倍素敵だ。

文部省が全国の小学校に配布?

 ラグーザとは関係ないが、「日本には幕末に渡来したが、本格的に広がったのは1909年(明治42)、文部省が全国の小学校に栽培法を付して配布してからである」などといった説もあった。今でいう、夏休みに家であさがおを育てるようなものか。

 なぜ文部省(当時)が朝顔ならぬコスモスの栽培方法を全国の小学校に配布したのだろうか。朝顔のように、一人ひとりが植木鉢で育て植物観察(生育日誌?)でもさせたのか、はたまた学校の花壇に植えられたのか。なぜコスモスが選ばれたのか。考えると興味はつきない。
 
 日本に渡来した年も広まった時期も、説によってかなり異なるコスモス。いつか、どこかで機会があれば、もう少し詳しく調べてみたい。コスモスを日本にもたらしたとされるラグーザとその妻、玉のその後の人生についても。

<参考文献・URL>
『non-noガーデニング基本大百科』(集英社)
☆レファレンス協同データベース

☆ウェザーニュース
https://weathernews.jp/s/topics/202309/190115/ 
☆tenki.jp

☆道草ギャラリー
https://mitikusag.exblog.jp/9843754/

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