おじいちゃんが最期に詠んだ俳句を胸に刻んで
今日は私のおじいちゃんについて書きます。
おじいちゃんが生まれたのは大正の終わり。
太平洋戦争の時20歳くらいだったので戦争へ行かなければならなかった。
幸い無事帰って来ることができ、結婚し会社勤めをした。
借金や軽い病気などはあったらしいが、私が生まれるころにはもうそんなに大変なことはなく、会社を辞めて地元で習字を教えたり、俳句の会やお寺のボランティア活動などをして元気に老後を過ごしていた。近所の人にけっこう慕われていたと思う。
普段からよく車に乗って外出したり、字を書いたり…生き生きとしていつも何かしている活動的なおじいちゃんだった。
だからとても毎日充実しているように見えていた。
だけど、戦時中から吸っていたタバコが原因だったんだろうか、80歳になったとき肺がんになった。
見つかったときにはほぼ手遅れで、医者から一年もたないかもしれないと言われた。
おじいちゃんはそのころ少し胸が痛いと言ってはいたがとても元気に見えていたので、まさかそんな診断を下されるとは思わなかった私たち家族はショックを受けた。
そして本人に余命の事、病気の事がなかなか言えなかった。
母は何度か言おうとしたようだが結局言えず、おじいちゃんは寝たきりになり、そのまま亡くなってしまった。
亡くなったのは80歳。当時の男性の平均寿命だった。
外でたくさん交流があった人だったので、お葬式にはたくさんの人が来てくれた。
その中の1人、俳句の会の先生が私たち家族にあることを話してくれた。
「あなたのおじいちゃん、俳句の会によく参加してくれてね、たくさんの俳句を作ったのよ。
それでね、亡くなる前おじいちゃんが詠んだ句がこれなんだけど…。」
そう言って短冊のような色紙を見せてくれた。
そこには筆で書かれたおじいちゃんの俳句があった。
巻き戻し きかぬ人生 とし暮るる
俳句の会の先生は続けた。
「けっこう俳会で人気が高かったんです。この作品。
でも、どうしてこんな寂しい句を詠むのかしらって思ったの。
その当時は病気でも何でもなかったのに…。
でも、もしかして何か気づいてたのかしらね。」
確かにおじいちゃんは具合が悪くなってから俳句の会に参加したことはない。
これが今までたくさんの句を詠んできたおじいちゃんの最期の作品になった。
私はこの句を見た時何だか切なくなった。
「としくるる」のとしは「年」と「歳」両方の意味を兼ねてるんだろうか。
充実して見えていたおじいちゃんの人生だったが、何かやり残したこと、後悔したことがあったのかもしれない。
恋愛や仕事、友人関係…。考えればきりがないし私には分からないけど…。
そもそも周りからは「目に見えること」しか分からないんだと思った。
「~そうに見える」というのは「本人=〜である」ではないという事なんだな。
人の人生は本人でないと分からない。
家族でさえも。
おじいちゃんが残してくれたこの俳句はずっと消えることなく私の心の中にいる。
私に直接くれた俳句ではないけれど、人見知りで、消極的、何かを始めるにはかなりエネルギーがいる性格の私にはとても必要な言葉に思えた。
いつか歳を取ったその時に、お迎えが来るその時に「やっておけば良かった」と思う事のないように。
もっと自分の人生を悔いのないよう、丁寧に生きたいと思った。
noteを始めたのもその一つだ。
そんな風にこれからも生きていきたい。