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ありがとう、ユキ ぼくが出会った奇跡 前編

【あらすじ】

高梨たかなし佑亮ゆうすけはごく普通の大学生。2000年の春のある日、彼に2つの出会いが訪れる。1つは美しい音大生、水原さんとの出会い。もう1つは真っ白い犬、ユキとの出会いだ。この2つの出会いによって彼は第3の出会いに導かれていく。佑亮は水原さんに恋をした。内気で気が弱い彼は初めのうちは自分の気持ちに否定的だったのだが次第に自分の気持ちを認めていく。悩み決断し傷つきまた恋をして佑亮は成長していく。白い犬ユキはそんな佑亮のそばにずっといたかった。だがそれがかなわないと悟ったときユキはある行動に出る。
 夕日がきれいな川原で起こった生涯忘れられない奇跡の物語。

【前編】

「ごめん。電車に乗り遅れちゃったから、ちょっと遅れる。」
 いつもは時間に正確なぼくの彼女が、少し息を切らしながら携帯の向こうでこう言った。
 どうやら寸でのところで電車に置いていかれたらしい。短い髪の毛を直しながら次の電車の時間を必死で確認している彼女の姿が目に浮かんだ。

 彼女はぼくの婚約者だ。2005年の秋に式を挙げることになっている。お互い大学生の頃に出会って、数年の付き合いの末に結ばれた。今日はプロポーズをOKしてくれた日から初めての待ち合わせだ。

「別にいいよ。気をつけて来いよ。」
 ぼくは彼女の罪悪感を取り除くように言った。
「ほんとごめんね。多分30分くらいでそっちに着くと思う。佑亮ゆうすけはもう着いちゃってるよね?」
「うん。さっき着いたとこ。」
「やっぱり~、ごめん。それにしてもさ、なんで待ち合わせがその場所なの?」
 彼女はふしぎそうに訊いた。

 ぼくは今、駅の近くの川原に立っている。そこは駅の裏口を左に曲がり、細い路地を抜けると右手に見えてくる場所だ。ぼくは大学時代この辺りに住んでいて、駅から帰るときはいつもこの通りを使っていた。
 ここは人がまばらで落ち着いた場所だ。
 両脇に団地をはさんで川があり、その堤防には鮮やかな緑の芝生が生い茂っている。日中の天気のいい日には学校が終わった子供たちがボール投げをしていたり、お昼には若いOLたちがお弁当を食べにやってくる。地元の人にとっては良い憩いの場所になっていた。しかし、たいした目印があるわけでもなく、普通なら通り過ぎるようなその場所を待ち合わせに選ぶ恋人たちは少ないだろう。

 実際ぼくもここで彼女と待ち合わせたのは今日が初めてだった。それにはちゃんとした理由があるのだが、とりあえずぼくは彼女に言った。
「ま、理由は着いてから話すよ。じゃあ。」
 携帯を切ってぼくは目の前に広がる川を見つめた。幅はそんなに広くないが水が比較的きれいなので多少魚も住んでいる。
 堤防に目をやると夕日の絵を描いている一人の学生の姿が見えた。なかなかきれいな絵で、夕日の色を上手く表現していた。その絵に導かれてぼくは本物の夕日に目をやった。この鮮やかに輝く夕日と水面に映る光は本当にきれいで、この辺りではここでしか見ることができない。この場所を知っていることが幸せに思えた。

 夕日の色は小さい頃好きだったオレンジ味のキャンディーをなめた後の色に似ていた。そんな夕日から放たれる光は川の流れにきらきらと反射し辺り一面にたくさんのオレンジ色の粒を投げかけていた。
 この粒を捕まえたら味がするかもしれないと思い、大きく口を開いて吸い込んでみたが何の味もしない。「当たり前か」ぼくは自分のおかしな行動に思わず笑った。そんなぼくを通りすがりの小学生が怪訝な顔をして見ていた。ぼくは恥ずかしくなって慌てて空に顔を向けた。
 空には鮮やかなグラデーションが出来ていた。遠くに見える山が夕日をゆっくりと吸い込むように今日の終わりを告げている。緩やかな風が、薄くオレンジとピンクに染まった雲を明日へと導いていた。
 そしてぼくは思い出していた。
 ちょうどこの日の空と同じような空の下で起こった出来事を。その忘れることのない出来事を、ぼくは今日彼女に話すつもりでいた。


 大学生のころ、ぼくは喫茶店で働いていた。駅の裏にある小さな喫茶店だ。住んでいたところからも近かったし、時給もけっこう良かったので大学に入ってすぐにそこで働き出した。
 
 小さな店だったのでスタッフはぼくを入れてたった4人だけだった。店長とその奥さん、主婦の敦子あつこさん、ぼくの4人だ。
 店長はぼくが入ることが決まると男の話ができると言ってとても喜んでくれた。
 簡単な接客が出来ればいいと軽い気持ちで入ったぼくだったが、仕事は思ったより容易なものではなかった。実家で家事一つやったことのないぼくは、接客は何とかこなすものの、調理場に慣れるのにかなり時間がかかった。調理場といっても料理はすべて店長か奥さんが作るので、実際に料理をするわけではなく、そこでのぼくの仕事はもっぱら洗い物だった。
 ぼくがカウンターに入るといつも店長が言った。
「蛇口の向き確かめとけよ。」
 というのも、ぼくは蛇口に食器を当てて割ることが多かったからだ。ゆっくり作業できるならそんなこともなかっただろうが、店ではある程度のスピードが要求される。最初のうちは自分のペースでやっていたがそれじゃ店にとってはどうも効率が悪いので仕方なく徐々にスピードを上げていった。何度かするうちにさすがに慣れてきたが、そうすると今度はその慣れが不幸を招いた。
 自信がつくということは油断が生まれるということだ。
 その油断が顔を出したときぼくは食器を割った。すると店長が、
「おっ、やったか、佑亮! えーっと、この前割ったのが1ヶ月前だから…。おれの予想が一番近いじゃないか。」
 と喜んだりした。どうやらぼくは3人の賭けのネタにされていたらしい。でもそれはありがたいことだった。通常弁償しなくてはいけないところを、賭けで儲けたからと何のお咎めもなくてすんだ。

 接客のほうは初めのうちは営業スマイルに少し苦労したが、これをマスターしてしまえば楽しく出来た。店に来るお客さんも常連が多く、すぐ顔を覚えることが出来た。しかし年齢層は高かったので大学生の会話についてこれる相手は全然いなかったし、恋愛対象になる若い女の子もめったに来なかった。何しろ仕事の合間にランチを食べに来る50代のサラリーマンや、買い物の帰りに立ち寄った主婦の人たちが客の9割を占めていたからだ。

 その日はいつもより片づけが長引いてしまった。ラストオーダーギリギリに入ってきた客がこともあろうに携帯で長話したせいだった。店長は、「明日から店の中は携帯禁止にするか。」と奥さんに持ちかけていた。それにはぼくも賛成だった。
 外はかなり暗く、朝から降っていた雨がまだやんでいなかった。しかし、かろうじて雨音が聞こえる程度だったのでかなり小降りにはなっていた。
 とにかくこんな日はさっさと家に帰って熱い風呂にでも入りたい。ぼくは急いで掃除機をかけ、机といすを整理して仕事を終わらせた。
 身支度を済ませ挨拶をすると店長が言った。
「なあ、だいぶ暗くなったな。雨も降ってるしよく見えないだろうからこの懐中電灯もっていけ。」
 店長は古新聞が乱雑に積んである棚から懐中電灯を手探りで探していた。
「え、いいですよ。そんなに遠くないし。慣れた道なんで。」
「いいじゃない。用心のためよ。もし襲われたらそれで殴りなさいよ。」
 笑いながら奥さんが言った。
「ほらよ。」
 店長は少しさびた赤くて細長い懐中電灯をぼくに差し出した。
 実をいうと片手で傘をさすのでもう片方の手は空いているほうが楽なのだが、せっかくの好意なんで受け取ることにした。ぼくはお礼を言って店を出た。

 5月だというのに外は凍りつくような寒さだった。家までの道は駅の裏道になるので人通りは少なく街頭もあまりない。確かに懐中電灯を借りて正解だったかもしれないなとぼくは思った。
 見渡す限りは真っ暗で遠くのほうに自販機の明かりが見えているだけだった。10時ならまだ誰か通っててもよさそうなものだが誰一人としていなかった。
 静かに響く雨音を聞きながらぼくは歩き出した。アパートまでは大体15分かかる。
 実を言うとぼくは普段運動をしないし、スポーツにも全く興味がなかった。それは生まれ育った環境によるものでもある。
 ぼくの実家は楽器を直す自営業を営んでいた。両親とも音楽が大好きだったからだ。だからと言ってぼくは音楽には興味はなく、どちらかというと物を作ったり直したりすることに興味があった。なので中学や高校の部活は運動部より技術部、工学部などに入っていて、ぼくはすすんで体を動かす習慣がなかった。そして大学に入った今は特にサークルなどに入ることはなかった。
 だからこのウォーキングはとてもいい運動になった。

 昼間にこの道を通ると川原のそばで小さな子供たちがお母さんに連れられて遊んでいたり、釣りをしている年配の方を見かけることがあった。
 屋台もたまにいて、わらびもちを売りに来るおじさんがサービスだといって子供たちに配っていたこともあった。その場に偶然居合わせたぼくももらった事がある。
 夕方は犬の散歩をしている人をよく目にした。よく会う犬には顔を覚えられ、ぼくの顔を見るとしっぽを振り出すこともあった。
 動物好きのぼくにとって散歩をしている犬に出会うのは楽しみの一つだった。でもそれはまだ明るいうちの話でこう暗くなってしまってはそんな楽しみに出くわすこともない。

 正直言うとぼくは暗闇が苦手だった。いわゆる怖がりだ。ホラー映画なんかもってのほかだし、修学旅行恒例の怪談話のときは友達に誘われる前に寝たふりをしてやり過ごしたこともあった。
 しかし人間というのはどうしてこうなんだろう。やってはいけないときに限ってやってしまう。
 この暗闇と静けさに刺激されて、ぼくはこの前友達の家で無理やり見せられた心霊番組を思い出していた。あの時見た幽霊らしきものがこの暗闇にぼやっと浮かび上がり、いっそう怖くなった。
「ダメだ、ダメだ」ぼくは身震いしながら小走りになった。

 そのとき川原のほうで雨の音にまぎれ微かな音がした。
 何かははっきり分からなかったが、誰かが草をかきわけて歩いてくるような音だった。
 ぼくは一瞬立ち止まり音のする方を見たが何もない。
 あんなことを考えた後だから言いようのない恐怖がぼくを襲った。「幻聴だ」と自分に言い聞かせてぼくは足を速めた。
 何とかアパートの前までたどり着き傘をたたむと、鍵を取り出そうとカバンの中に手を入れた。
 ぼくが持っているカバンには内ポケットがない。いつもこまごましたものはそのままカバンの中に放り込んでいたのでいつも探すのに時間がかかった。でも今日は懐中電灯の光のおかげでいつもより早く見つけることができた。ぼくが鍵穴に鍵を差し込むと、

「…。」

 一瞬体が凍りついた。確かに何か聞こえた。今のは幻聴じゃない。何の音だろう。

 音じゃない、声?
 
 気配のする方に恐る恐る懐中電灯の光を向けると何か白いものが見えた。それが何か分かった瞬間ぼくの中から恐怖は消えた。
「どうしたんだ? お前。いつからそこにいた?」

 白い小さな犬がずぶぬれになってぼくの後ろに座っていた。

 大きな瞳が懐中電灯の光に照らされてオレンジ色に光っていた。白い毛は濡れていなければきっといい毛並だろう。首輪はつけていない。
 犬は濡れた毛を寒さで震わせながらその愛らしい大きな瞳をぼくに向けた。この雨と寒さからか何だか元気がない。ぼくが手を差し出すとしっぽを弱弱しく振り、ぼくの指先を少しなめた。
 温かくてやわらかい舌だった。体が冷えていたぼくには嬉しい温かさだった。
 ぼくは思わず微笑むと頭をなでた。するとそいつはぼくのカバンに顔を近づけ、鼻をふんふんと動かして前足でカバンの底をつついた。
 そこにはバイト先で今日もらったサンドイッチが入っている。どうやらお腹が空いているらしい。
 ぼくはカバンからサンドイッチを取り出し、小さくちぎって犬にやった。犬は嬉しそうにサンドイッチをほおばった。 
「じゃあな。ぼくがしてやれるのはこれくらいだから。」
 犬はぼくの顔を見たまま嬉しそうにしっぽを振った。さっきよりも元気のいい振り方だったので安心して、
「バイバイ。」
 ぼくはもう一度頭をなでてやるとドアノブに手をかけた。
 すると犬はトコトコとぼくとドアの間にやってきて座り込んでしまった。ぼくを部屋に入れないつもりらしい。
 犬はぼくの顔を見ると口をパクパク開けてお手をするまねをした。
「おいおい、さっきサンドイッチやったろ? あれで勘弁してくれよ。」
 ぼくの声を聞いた犬はよりいっそうしっぽを振った。
「ここじゃ、飼えないんだよ。ごめんな。」
 ぼくは強引に犬を横に押しやるとドアを開けた。
 そのドアの隙間を犬は見逃さなかった。素早く顔を突っ込んで一緒に部屋に入ろうとした。ぼくは一瞬犬の顔をドアではさんでしまったんではないかと思ってヒヤッとしたが、どうやら無事だったみたいだ。
「こら。ダメだって。ここペット禁止なんだから。」
 犬は顔を突っ込んだまま動かない。ドアを閉める真似をしてみたり、残りのサンドイッチを外へ放り投げたりしたが無駄だった。「こいつ吠えなさそうだし、大丈夫かな。明日までなら…」雨も降ってることだし、ぼくはこの訪問者を一晩泊めてやることにした。

 部屋に入るとすぐぼくはバスタブにお湯をはるため風呂場に向かった。犬は風呂場まで着いてくると足元に擦り寄ってきた。ぬれた毛が素足に冷たかった。
 お湯がたまる間ぼくは犬の体を拭いてやったがまだ汚れが目立ったので一緒に風呂に入ることにした。犬は嫌がることなくぼくの入浴に付き合った。抱き上げてみると、メスだということがわかった。
「一人暮らしを始めて、初めて家に来た女がお前かよ。」
 こんな冗談を言いながら、自分の汚れを洗い流すと石鹸で彼女の体も洗ってやった。洗い終わると一緒に湯船に浸かって疲れを癒した。
 動物が一緒だとあまり長風呂もできない。10分もしないうちに上がって彼女の体を拭いてやった。ドライヤーで毛を乾かしてやると毛がツヤツヤしてきた。
 思っていた通り真っ白できれいな犬だった。
 あまりにふさふさして長い毛だったので濡れていたころに比べて倍近く体が膨らんだ。
 ぼくは彼女を抱いてリビングに戻った。ふわふわであったかい彼女はぬいぐるみのようだった。
「お前、美人だな。それに人懐っこいし。首輪してないけど飼われてたんじゃないの?」
 ぼくは一人コーラを飲みながら、座布団の上でくつろいでいる彼女に話しかけた。彼女はぼくと目が合うとひざの上に前足をかけ、顔を近づけてきた。あまりにかわいかったのでぼくも鼻をくっつけた。
 彼女はペロペロとぼくの顔をなめるとぼくの肩によじ登ってしっぽを激しく振った。
「やめろってば。」
 ぼくはくすぐったくなって彼女を抱きかかえた。よく見るとそんなに若い犬ではなさそうだ。口の中を見てみると歯が少し抜けていた。
「なあ、お前いくつくらいなの? おれより年上っぽいな。」
 ぼくが話しかけると彼女は耳をピンと立てた。ぼくの言ったことを理解しようとしているようだった。ぼくはなんだか嬉しくなった。一人暮らしをしていたぼくにとって、たとえ一方的でも話し相手がいるのはありがたいことだ。しばらくの間一緒にテレビを見て過ごし、途中たわいのないことをぼくは何度か話しかけた。彼女はそのたびしっぽを振ったり手をなめたりして何かしら反応を示してくれた。
 ふと彼女を見るとぼくのひざの上に顔を乗せたままスヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。
「ぼくも寝るかな」そっと彼女の顔を座布団へ移すと、自分もベッドへ入った。「明日どうしようか? 学校行く前に玄関の前に出したらそのままどこかへ行くかな?」明日の心配をしながらぼくはそのまま眠りについた。
 
 次の日雨は上がっていた。ぼくは軽く朝食を取り、彼女には賞味期限ギリギリのウインナーとチーズをやった。
 そして、登校の時間。どうなるかと思ったが、昨日はあんなに部屋に入りたがっていたのに、外に出るときは案外あっさりぼくの後について出てきた。
「じゃ、昨日楽しかったよ。元気でな。」
 ぼくがそう言うと、彼女は座ったまま右の前足を上げて手招きした。ぼくがその手を受け取るともう片方の手を動かした。どうやら「お手」ではなく「かいて」のポーズらしい。
 ぼくはおなかのほうを少しなでてやると満足そうに舌を出した。気がすんだのか彼女は立ち上がるとそのまま通りのほうへ歩いて行き建物のすき間に姿を消した。
 ぼくはしばらくその建物を見つめていた。
 なんだか少し寂しくなったが、ほっともした。そのまま自転車に乗ってぼくは学校へと向かった。


 授業を受けるときぼくは気をつけることがある。それは教卓から見て左端のブロックの真ん中よりやや後ろの席に座ることだ。
 なぜならあまり前に行くと始終教授とアイコンタクトを取らなくてはいけないから適当にサボれないし、かといってあまりに後ろの方に行くとサボろうとする気がバレバレで目を付けられてしまうからだ。
 みな考えることは同じで、教室に遅れて入るともうお目当ての席は陣取られている。バッグやジャケットを自分の代わりに置いてあることが多い。このやり方はフェアではないと思うのだがそんな文句はとうてい言えない。
 昨日ある程度寝たと思ったがまだ少し眠かったのでぼくは必死で教授の死角となるポジションを獲得しようとした。念願がかなって左ブロックは取れたものの、少し後ろすぎた。ここはいわゆるサボり席だ。「やる気のないやつ」とみなされる危険があるが今日のぼくはまさにそれなので潔くそこに座ることにした。授業開始までウトウトしていると、
「あ、いたいた。佑亮。」
 頭の上から隆志たかしの声がした。ぼくは少し体を後ろへ反らすと、「あれ? お前この講義取ってたっけ?」
 眠そうな声で聞いた。
「取ってねえよ。お前を探しに来ただけ。なあ、今日ひま? 最近鍋食べたくてさ~。今日の夜お前ん家でやらね?」
「なんだよ。いきなり。」
「いいだろ。食材は持っていくから。おれのおごり。」
 にかっと笑って隆志は言った。
 こいつはこの大学で一番初めに出来た友達だ。彼は明るくて誰にでも屈託なく話すので彼の周りにはいつも人が集まっていた。そのおかげでぼくは彼を通じてたくさん友達を作ることができた。少し人見知りするぼくにとって隆志と最初に友達になれたことはラッキーな事だった。
「でもおれバイトあるからな。終わってからでもいいなら別にいいけど。」「おう。それでも全然かまわないって。何時に終わるの?」
 隆志が嬉しそうに言った。
「今日は7時だから、15分頃おれん家来いよ。」
「オッケー。彼女も連れて行っていい?」
「ああ。見てみたいしな、お前の彼女。」
 ぼくは言った。
「じゃ、決まり。7時15分にお前ん家な! じゃ、授業頑張れよ。」
 隆志は手を振りながら講義室を出て行った。ぼくは眠い目をこすりながら羨ましそうに彼を見送った。
 その後教授がたくさんのプリントを抱えて入ってきた。
「このプリントを講義中に完成させて提出してください。今日の出席点とします。」
 ぼくの仮眠タイムは繰り越された。


 今日は3限目で終わりだったので2時からバイトに出かけた。
 喫茶店はちょうどこの時間から混み始める。2時から2時間ほどが大忙しで、ドアの開閉を知らせるベルが鳴るたびにこやかに挨拶するのだが、その笑顔の裏では「頼むからもう来ないでくれよ」といつも願っていた。
 しかしどういうわけか、今日はかなりお客が少なくそんな身勝手な願望も持たずにすんだ。
 いつもなら仕事は向こうからやってくるが、今日は自分から探さなければならなかった。忙しすぎるのはごめんこうむるが手持ち無沙汰というのも困る。
 何かすることはないかと店を見渡したとき一人の若い女性客が入ってきた。おじさんおばさんが多いこの店には新鮮な客だったので一瞬挨拶が遅れたが、すぐに「いらっしゃいませ」と言って案内した。

 彼女は痩せ型でストレートのロングヘアー、いまどき珍しい黒髪だった。スリムな体で背筋をピンと伸ばし歩いていたのでよりいっそう細く見えた。年はぼくとそんなに変わらない、おそらく二十歳前後だ。女の人にしては背が高く、デニムにベージュのTシャツを着ていてルイ・ヴィトンの小さなバックを肩からかけていた。左手にはバイオリンのカバンを持っていた。
 
 彼女はぼくが案内した窓際の席に座ると大事そうにバイオリンを椅子に置いた。店長の奥さんがオーダーをとりに行くと、メニューを見ることなくアールグレイを注文して窓の外を眺めた。
 いつもは年配の方ばかりやってくるので、この店の空間が彼女の存在で華やかになった。
 ぼくが注文の品を持っていくと彼女は軽く会釈して横に置いてあったカバンを開けて中のバイオリンを見つめた。
 ぼくはなぜだかその行動が気になった。
 バイオリンを見ている彼女の顔は初め笑ったように見えたがすぐに曇っていった。ぼくは灰皿を洗いながら彼女に悟られないように彼女を見ていた。窓から日が差し込み彼女の表情が照らし出された。すっと鼻筋が通り目は切れ長で上品な顔立ちをしていた。透き通るような白い肌が印象的だった。光を浴びたストレートの黒髪は驚くほどきれいで漆を塗られたようにツヤツヤ輝いていた。
 彼女はバイオリンをしばらく眺めていたがゆっくり取り出し、ひざに乗せて大事そうに指で弦をなぞり始めた。窓から入る光が彼女と彼女を取り巻く物全ての物を色付けしていた。テーブルに置かれた水の入ったコップや紅茶のポット、無造作に折りたたまれたおしぼりでさえも彼女の持つ独特の空間に引き込まれている。
 それはまるでアートのような美しい光景だった。
 ぼくはしばらくその光景を見つめていた。見とれていたといったほうが正しいかもしれない。彼女が放つ美しさに魅了されながらも、どこか寂しげな顔をみていると何だか悲しくなってきた。どうしてこの人はこんなに寂しそうな顔をしているんだろう。
 彼女に微笑んでほしかった。
 そのときぼくはバイオリンの弦が一本切れていることに気づいた。少し迷ったがぼくは思い切って声をかけることにした。
「きれいなバイオリンですね。」
 彼女は歩いてきた店員がいきなり声をかけてきたのでびっくりして、
「えっ…? ええ、どうもありがとうございます。」
 一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに笑って答えてくれた。
「バイオリン弾くんですか?」
「はい。ほんの数年ほど前からですが。」
 彼女は言った。
「へえ、独学ですか?」
「いえ、音大生なんで。でもまだそんなに弾けなくて。」
 寂しそうな笑顔で彼女は言った。
「でも、そのバイオリン壊れてますよね。」
 切れた弦を見つめながらぼくは言った。
「ええ。今日学校で練習していたら切れてしまって…。替えの弦は持ってるんですけど自分じゃうまく付けれないしどうしようか困ってたんです。」
 彼女の声が少し暗くなった気がした。
「良かったらぼくが直しましょうか? 実家が修理屋なんでけっこう楽器直すの得意なんですよ。」
 ぼくは緊張しながら言った。本当は得意とまではいかない。昔、父さんが直しているのを横で見ていただけだからやり方は分かるが、ちゃんとした専門技術があるわけではなかった。でも弦の付け替えなら何度かやったことがあったので思わず過大評価した。
「そんな、いいですよ。」
 彼女は首を振った。
「すぐにご入用でないんなら、またここに取りに来てくれたらいいです。大体毎日この時間はいますから。」
 ぼくは言った。
「でもやっぱり…。」
 彼女は困った顔でぼくを見た。
「本当に遠慮しないでください。」
 ぼくが笑うと、
「…そうですか。じゃあ、お願いしようかな。明日取りに来ます。」
 彼女は悩んだようだが承知してくれた。
「分かりました。帰るときぼくに預けてくださいね。」
 
 7時近くになるともうほとんどお客はいなくなった。ぼくは灰皿を急いで洗って片づけると帰り支度を始めた。
 ぼくが注文をとっているときに彼女は店を出たらしく、ぼくは帰ったことに気がつかなかった。バイオリンのことを店の皆に聞いてみると店長がニヤニヤしながらぼくに渡してくれた。
「お前、仕事中にナンパしたの? あの人きれいだったもんなぁ。」
「ナンパって…。友達ですよ。」
 ぼくはとっさに嘘をついた。
「友達が名前知らないわけないだろ。彼女があの水色のシャツの人にって言うから、お前の名前教えといてやったよ。ついでに彼女の名前も聞いといた。『水原みずはら』さんだってさ。」
 店長は自分が手柄をたてたように得意げに言った。でもその態度は間違ってなかった。ぼくはその行為にとても感謝したからだ。
「『水原』さんですか…。ありがとうございます。このバイオリンが壊れてるのに気が付いて。だから直してあげようと思って。仕事中にすいませんでした。」
 ぼくは嘘がばれたので顔を赤くして言った。
「別にいいけどさ。ナンパするなら名前くらい聞いとけよ。」
 店長は笑って言った。ぼくはそのことには何も答えず挨拶をして店を出た。


 家に着くと隆志とその彼女がドアの前で待っていた。約束の時間より5分早い。
「お疲れさん。待ってたよ~。早くドア開けてくれ。これ、おれの彼女の朋美ともみ。おれらより1つ上の音大生。」
 両足でぴょんぴょん跳ねていた隆志が彼女を指差して言った。
「初めまして。今日はいきなりごめんなさいね。」
 ぺこりと頭を下げて朋美さんは言った。年上と言わなくても分かるくらい顔つきも態度も落ち着いていた。ぼくは慌てて頭を下げた。
「こちらこそ。どうぞ入ってください。」
 バイオリンを落とさないように抱えてぼくはドアを開けた。
「いつもより部屋きれいじゃん。」
 隆志は部屋に入るなり座布団の上に転がった。ぼくはバイオリンをベッドの背に立てかけると朋美さんにもくつろぐように薦めたが、彼女は持っていたスーパーの袋をテーブルに置くと隆志の頭を軽くたたいた。
「来ていきなり寝転がらないでよ、まったく…。野菜切るんでしょ。」
 彼女に促され隆志はシブシブ起き上がった。シブシブというのは見せかけで本当は喜んでいることがぼくには分かった。
 こういう小さなふれあいが男を幸せにする。羨ましかった。
 2人がそろってキッチンへ向かったのでぼくも行こうとすると朋美さんが慌てて言った。
「いいの、いいの。今日は場所提供してくれたお礼だから佑亮くんは座ってて。」
「そんな、悪いですよ。お客さんなのに。」
 ぼくが抵抗すると隆志が言った。
「いいから、座っとけって。どうせ下ごしらえなんてたいしてかかんないよ。」
 そういわれてぼくは仕方なくリビングに戻った。準備をする2人の後姿を見ていると、そこにだけ2人の空気感がすぐに生まれて入りづらくなった。
 これが恋人たちの作るいわゆる「2人だけの世界」というものだろうか。「ここ、ぼくんちなんだけどなぁ」心の中で文句を言いながらぼくは2人を見ていた。おそらく当事者たちは自分たちの織り成す空間が第三者にどんな影響を与えるか全く気づいてないだろう。見ているこっちは結構恥ずかしいし、羨ましい。
 ぼくにもこんな空間を一緒に作れる人が現れるだろうか。
 ぼくはふと水原さんから預かったバイオリンを見た。
   水原さんは今何をしているんだろう。このバイオリンは彼女にとってどんな存在なんだろう。無性に知りたくなった。
 ぼくはカバンを開けてバイオリンを取り出すとひざの上に乗せた。切れた弦を指でなぞってみる。今日の彼女の美しく寂しげな顔が頭をよぎった。このバイオリンに何らかの思い入れがあるに違いない。
 ぼくはひょっとして余計なおせっかいをやいたんだろうか。このバイオリンを直すことは彼女を笑顔にできると、あのとき直感でそう思ったが間違っていたんだろうか。
 そんな不安を抱えながら、調理が終わるまでぼくはこのバイオリンを直すことにした。ぼくが弦をはずし始めると、
「何してんだよ。それさっき持ってたバイオリン? そういや何で持ってんのかなって思ってたんだよ。それお前の?」
 用意を終えた隆志が鍋をテーブルに運びながら声をかけてきた。
「ああ、これは人に修理頼まれたんだ。おれんじゃないよ。」
 嘘をついた気分になった。実際は『頼ませた』だ。
 朋美さんも切った野菜を持ってテーブルにやってきた。彼女は野菜を鍋に入れながらチラッとバイオリンを見た後にすぐ「あれ?」という表情になり彼女の動きが止まった。
 ぼくはその表情にドキリとした。何かを知っている顔だった。
「ねえ、そのバイオリンって…。」
 眉を寄せて朋美さんはバイオリンを覗き込んだ。
「どうかしたんですか?」
 意外な朋美さんの反応にぼくは不安になった。
「そのバイオリン、誰から預かったの?」
「今日バイト先に来た女の人です。ちょうどおれらと同年代くらいの。」
 期待と不安が混じった声でぼくは言った。
「その人の名前、『水原』じゃない?」
「そうですけど、知ってるんですか?」
 ぼくが驚いて答えると、彼女はやっぱりねといった表情で頷いた。
「うん。友達ってわけじゃないんだけど、同じ大学なの。相手は私のこと知らないわ。私が彼女を知ってるだけ。彼女ちょっと有名だから…。」
「え? 有名って…?」
 ぼくが聞き返すと朋美さんは少し躊躇して何かを言おうとした。だがそれより先に、
「分かった! 教授と色恋沙汰でもあったんだろ?」
 その場を茶化すように隆志が遮った。ぼくと朋美さんの共通の話題になりそうだったのを少し嫉妬したのだろう。気持ちは分かるが今は彼女の話が聞きたい。ぼくは少し強い口調でこう言った。
「お前は黙ってろよ。で、何が有名なんですか?」
 朋美さんは隆志のほうをチラッとみて「馬鹿ね」という表情をした。そしてすぐぼくの方に向き直ると、
「うん。彼女ね、よくそのバイオリン持ち歩いてるの。さっきはケースに貼ってあるステッカー見てわかったんだけど。何か噂なんだけどね。ある教授と付き合ってんだって。」
 ぼくは耳を疑った。
「やっぱり! おれ正解じゃん。付き合ってる教授って年食ってんの?」
 隆志が好奇心いっぱいの声で言った。
「うん。もう60歳近いおじさん。でも真相は分かんないわよ。ただ、その教授の研究室によく行くし、2人一緒に帰ったりしてるところを目撃されてるだけだから。なんか教授の自宅にまで入って行ったとか。彼女専攻はピアノなのに教授と付き合い始めてからはバイオリンも始めたの。その教授がバイオリン専門だから。それにね…」
 そこまで聞くとぼくは朋美さんの言葉を聞き入れず、全ての情報を全感覚がシャットダウンした。頭に浮かんでくるのは喫茶店での水原さんの姿と1つの情報だけだった。
 教授と付き合ってる。
 そのときぼくの頭はその事実を否定できる理由を必死に探していた。
「佑亮くん…?」
 ぼくは朋美さんの声で我にかえった。心配そうにぼくを見つめている。ぼくはいつもの友達に向ける顔を必死で思い出し、
「…へえ、でも恋愛は自由ですからね。」
 平静を装いながらそう言ってバイオリンを元に戻した。
 隆志はまだこの話題を続けようとしたが朋美さんがぼくに気を使ったのかさりげなく遮ぎり、話題は何気ない方へと進んでいった。
 それから3時間ほど鍋をつつきながらいろんな話をしたがぼくはあまり覚えておらず、話に参加はするものの表面上適当に答えていたようだった。頭の中では水原さんのことばかり考えていた。
 11時を過ぎる頃2人は帰って行った。ぼくは引き止めたが、2人とも明日早くバイトが入っているからと言って帰った。小さくなっていく2人を玄関先で見送りながらぼくはため息をついた。
 1人になれば今以上に水原さんのことを考えてしまう。
 外は真っ暗でしんとしていた。1人で考え事をするには絶好のシチュエーションだ。
 確かにぼくは彼女に魅力を感じたし気にもなった。だけど彼女に声をかけたのは単なる人助けだと思いたかった。しかし朋美さんに彼女の話を聞いたときの自分のあのショックは否定できない。
 ぼくには分かっていた。そのまま考えて行ったら後戻りできない場所に自分を追い込んでしまう。今このドアを閉めて1人部屋に戻ったら予想通りの結末を迎える気がして怖かった。
 そのとき、白い何かがぼくの目の前の闇を動かした。目を凝らして見ているとそれはだんだんと近づいてくる。
 ふわふわの毛のかたまり。あの犬だった。
「お前、帰ってきたの?」
 ぼくの顔が自然と緩んだ。彼女はぼくの顔を見ると軽くしっぽを振った。よく見ると何かを口にくわえている。そのまま彼女はトコトコとぼくの方にやってきて足元にそれを置いた。ねずみの死骸だった。
「うわっ!」
 ぼくはびっくりして後ずさりした。彼女は誇らしげに胸をそらせ、その土産物の前に座った。どうやらぼくのために獲ってきてくれたらしい。恩返しのつもりなんだろうか?
「あのなあ、気持ちは嬉しいけどこのプレゼントは嬉しくないよ。」
 ぼくは笑いながら言った。彼女はまるで床を掃除するようにしっぽをパタパタと低く振り、うるんだ瞳でぼくを見た。それから「ただいま」と言う表情で玄関の中に入った。
 ぼくは彼女を歓迎した。
 今日は一人になりたくない夜だったから彼女が来てくれたのは本当に嬉しかった。ねずみを土の中に弔ってからぼくは彼女を部屋に案内した。
 今日はあまり体も汚れていないし、ぼくも少し酔っていたので風呂に入るのはやめにして彼女をすぐリビングへ通した。お腹が空いていると思い鍋の残り物をお皿に移しかえて彼女に差し出したら、野菜にはあまり手を付けず肉にむさぼりついた。
 食べている合間に彼女は時々耳を下げてぼくの顔を見た。ぼくが微笑み返してやると食事を中断してぼくの股の間に入りしっぽを振った。
 甘えてるんだな。
 ぼくは何度も何度も頭を撫でた。心が落ち着いた。
 このときぼくは本当にこの突然の訪問者に感謝していた。水原さんのことは完全にぼくの頭の中から消えたわけではなかったがそれでも彼女がいる分気が紛れた。
「なあ、お前行くとこないの?」
 彼女の目を覗き込んでぼくは訊いた。彼女はぼくの瞳を見返すと耳を後ろに下げた。肯定したのだろうか?
「ここにいてもいいよ。吠えなければな。」
 一瞬彼女が笑った気がした。そしてよりいっそう強くしっぽを振り、ぼくの手をペロペロとなめると再び食事に戻った。
 その夜は幸せな気分だった。普通なら余計なことを考えない様に努力しなければいけない時間。それを彼女が埋めてくれた気がした。
 昨日と同じように一方的なぼくの話を子守唄にして彼女は気持ちよさそうに眠った。

続く


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