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ありがとう、ユキ ぼくが出会った奇跡 後編

【後編】

 あれから一週間が経ったが水原さんから連絡はなかった。
 ぼくもしなかった。これはぼくがどうこう出来る問題でもなく、干渉することも出来ない。ぼくが役に立てることはまずなかった。
 この一週間ぼくは彼女のことをなるべく考えないように過ごした。1人の時間を減らそうと、店長に頼んでいつもより長くバイトをしたり、友達と出かけて遅くまでカラオケに行ったり買い物をしたりした。ぼくはめったに自分から遊びに誘わないので声をかけられた友達は少し驚いていた。
 そして空いてる時間はたいていユキを探した。あれから道行く人に声をかけたり、張り紙を張ったりしたがユキは一向に姿を見せなかった。ユキを探すときだけはあの散歩コースだった川原に行かなきゃ行けないので水原さんのことがいつも頭をよぎった。
 今日もいつものようにユキを探しに川原に出かけたがやっぱり出てくる気配がない。ぼくはもう半ばあきらめかけていた。もしかしたら本当の飼い主がいてその人のところに帰ったのかもしれない。もしそうなら寂しいが仕方ない。今日で捜索はやめにしようか、そんなことを考えながらぼんやり歩いていると、いつもなら避けて通らないその場所にぼくはいつの間にか立っていた。
 水原さんと別れた場所だ。
 彼女の顔が頭に浮かんだ。彼女はどうしているんだろうか…。お腹の子供はどうするんだろう。一人で産む決心をしたんだろうか、それとも彼とヨリを戻すつもりなのか。どっちにしたってぼくが出て行ける問題じゃない…。
 そんなことを考えているとあのとき感じた無力感が再び襲ってきた。ぼくはこの一週間どうすることもできない自分を認めるのがつらくて自分の気持ちすら否定することに努めてきた。自分の器はそんなものだと考えれば楽になったし、彼女への気持ちを否定することで気が軽くなった。
 だからなのか? あのときほど今は無力感は感じなくなっている気がする。本当はそれで満足できるはずなのに何だか…。
 これはいい事なんだろうか? 自分の力の大きさを決めてしまうのはいい事なんだろうか。そうすることで楽にはなった。けどこの重苦しさは何だ。…これはなりたかった自分じゃない。
 そのとき近くの住宅から音楽が聞こえてきた。クラシックのCDだ。
「アヴェ・マリア」
 水原さんと行ったクラシックコンサートで5曲目に演奏された、彼女が泣いたあの曲だった。それを耳にしたときありったけの彼女の記憶がぼくの中で渦巻いた。
 初めて会ったあの日、バイオリン、ユキと水原さんとの散歩、コンサート、口げんか…。
 その記憶がぼくの全身を駆け巡り今まで封印していた気持ちを一気に解き放った。
 やっぱりこのままじゃいけない。ぼくはまだ彼女のことが好きだし、彼女の力になりたいと思っている。彼女のために何かしたいんだ。確かに今のぼくは彼女に必要ないかもしれないし、今彼女が抱えている問題を解決する術も持ってない。
 だけどもしぼくの気持ちが彼女にとって希望になってくれたら。もしぼくの存在がこれから必要になってくれたら。
 そう思った。彼女のためにぼくが出来ることはぼくの気持ちを伝えることなのかもしれない。ぼくはすぐ持っていた携帯を取り出すと水原さんへ電話をかけた。繋がるとすぐ、
「もしもし、佑亮です。あの…、明日時間ある?」
 相手の声も聞かずに話した。
「うん。…どうしたの?」
 あまりに急にぼくが話し出すので彼女は戸惑った。
「ちょっと話があるんだ。」
 ぼくは強い口調で言った。少しの間沈黙が流れたが、しばらくすると、
「…ちょうど良かった。私もちゃんと会って言いたいことがあったの。」
 彼女は落ち着いた優しい声で言った。それからぼくたちは会う約束をした。

 ぼくたちが待ち合わせたのはあの川原だった。6時のバイトを終えてから会う約束をしたので夕日はほとんど顔を隠していた。薄暗い中バイト先から川原に向かう途中、ぼくは妙に落ち着いていた。今のこの時間とこの場所をしっかり踏みしめている気がして、偽りのない気持ちを伝えるという決断をした自分に誇りを持っていた。

 川原に着くと、ぼくは彼女の姿を薄暗闇に見つけた。
 何だか彼女はいつもより大きく見えた。初めて会ったとき感じた悲し気な面影はどこにもなく、ぼやけることのない輪郭と迫ってくるような明るい色をしていた。ぼくに気がつくと彼女は軽く手を振り微笑んだ。
「ユキちゃん見つかった?」
「ううん。まだ。もう帰ってこないんじゃないかと思う。もしかしたら家族がいて戻って行ったのかも。」
「そっか…。そうだとしたら仕方ないよね。家族のところに戻りたかったのかもしれないね。」
 ぼくは軽くうなずくと少し緊張した声で言った。
「あの…、今日来てもらったのは…」
 ぼくが話し出すと彼女はすぐに遮って言った。
「ごめん、私から話していい? どうしても初めに言っておきたいことがあるの。」
 不意をつかれて少々戸惑ったがぼくは承知した。
「あ…、うん。」
 彼女は続けた。
「まず、本当にありがとう。佑亮くんのおかげで私吹っ切ることが出来たの。佑亮くんが励ましてくれたから。」
 この言葉を聞いたときぼくは一瞬誰か別の人の声を聞いた気がした。今までの彼女とは明らかに様子が違う。彼女はしっかりとした眼差しをぼくに向け凛として立っていた。今までに見たことのない力強くきれいな、でも優しいだった。そのを見たときぼくは分かった。

 これは母親のだ。

 彼女はそのままゆっくり口を開くと、
「私ね、産むことにする。」
 静かに、でも力強く言った。ぼくは彼女を見たまま黙っていた。
「あれから彼と話したの。彼最初はすごくショックだったみたいだけど私の話ちゃんと聞いてくれた。それから話してくれて嬉しいって言ってくれて。そのあと2人で話し合って、私も向こうに行って一緒に住もうってことになったの。
 それがこの子にとっても私たちにとっても一番いいことなんだと思う。周りにはきっと反対されると思うけどこれから時間をかけて説得するわ。このこと言えたのは佑亮くんのおかげ。あのとき言ってみなよって言ってくれたから…。ほんとうにありがとう。」
 彼女は幸せそうに笑った。今まで見た彼女の表情で一番幸福な顔だった。ぼくが彼女をこんな笑顔にしたかった。でもそうしたのはぼくじゃない。彼がしたんだ。

 ぼくは言えなかった。

 自分の気持ちを彼女に言うことが出来なかった。もう言う必要は無いと思った。彼女がこういう結論を出した今、ぼくの思いは希望になるどころかお荷物になる。彼女を困らせるだけだ。ぼくは言った。
「おめでとう。よかったね。」
 どんな顔をして言ったのかは全く覚えていない。でもきっと笑っていたと思う。彼女はしばらくぼくの顔を見つめていたが、
「ごめんね。…ありがとう。」
 そういうと微笑んだ。彼女は軽く片手を上げて、
「じゃ、行くね。向こうへ行くとき連絡する。」
 と言った。ぼくは頷いた。
「うん。気を付けて。」
 ぼくと彼女は別れた。彼女の後ろ姿をぼくは静かに見送った。
 すでに日は沈み夜が近づいていた。ぼくは冷えた手をポケットに突っ込み空を見上げた。
 仕方ないよな。ああ言われたら…。
 涙は出なかった。
 おそらくぼくは最後にこうなることが頭のどこかで分かっていたんだろう。それはきっと一番初めにバイオリンを見つめる彼女の眼差しを見たときから分かっていたことかもしれない。だから彼女に惹かれていく自分をあんなに否定したんだ。
 だけど結局彼女を好きになり最後には自分が思っていた通りになった。想いが強い分奇跡を信じたがそれも起こらなかった。
 ぼくは妙にこの状況を納得し、すっきりした気持ちだった。ただ一つだけ気になる事があった。彼女が最後にぼくに言った「ごめんね」はどういう意味だったんだろう。どうしてぼくに謝ったんだろう。その言葉を口にしたときの彼女は微笑んでいたがひどくぼくにすまなさそうな顔をしていた。本当に悪いと言った感じの…。
 ひょっとしたら彼女はぼくの気持ちに気づいていたのかもしれないな。
 そう考えれば彼女の言動に説明がつく。ぼくが今日告白することを彼女はなんとなく分かっていたんだろう。だけどしてほしくなかったんだ、言わないでほしかったんだ。だからぼくの話を遮ってまで自分の話をして、ぼくの話を聞かずに別れたんだ。
 妊娠のことをぼくに打ち明けたのも、これ以上自分を好きにならないでほしいという彼女の優しさだったのかもしれない。好きになっても自分には応えることが出来ないとぼくに気づいてほしかったのかもしれない。
 最後の謝罪と感謝の言葉は想いを伝えなかったぼくに対しての言葉だったんだ。
 妊娠を打ち明けられたときから、ぼくはもうフラれてたんだ。ぼくは彼女にとって大きな存在になれなかった。お互いそばにいて支えあう大切な存在。水原さんにとってそれは「彼」だ。
 2人が羨ましかった。ぼくにもいつかそんな存在になれる人が現れるだろうか。ぼくを必要としてくれる相手、ぼくが必要とする相手。今は限りなく一人に思えた。
 ぼくは言いようのない寂寥せきりょう感を抱いたまま家に向かって歩き出した。暗い夜空にうかんだ月だけがぼくを見つけて照らしていた。ぼんやり月を眺めながら川原に沿って歩いているとぼくは何かの気配を後ろに感じて足を止めた。
「…。」
 何か聞こえた。音? 違う、声だ! 
 ぼくは驚いて振り返ると月明かりを浴びながら白い毛を揺らす小さな命がそこにいた。

 ユキだった。

 ぼくは信じられずにしばらくその場に立ち尽くした。あのときみたいに幻を見ているのか?
 ユキはじっとぼくの顔を見たまま動かない。冷たい風が月明りに光ったユキの毛を何度もやさしく揺らした。いつもより汚れていたがふわふわできれいな毛だった。
 ぼくはゆっくり手を差し出した。
 それを見るなり彼女は「ただいま」とでも言うように急いでぼくの足元に歩み寄った。ぼくがあごに手を置いてやると目を細めて舌をだした。手のひら全体で感じる彼女のやわらかな毛の感触と温かな体温は彼女の確かな存在をぼくに伝えた。
 ユキは間違いなくそこにいた。
 ぼくがしゃがむと彼女はぼくの顔を覗き込み右の頬をなめた。温かかった。涙があふれた。
「お前…、どこに行ってたんだよ。」
 ぼくは彼女の体を抱くと声を出して泣いた。だれもいない川原でぼくとユキの影が月明かりに照らされて静かに浮かび上がっていた。


 ぼくはユキと堂々と住めるようペットと住めるアパートへ引っ越した。そのアパートは思っていたよりすぐ見つかり、ぼくとユキはすぐにそこに移った。大学からは少し離れてしまったがバイト先とあの川原が近くなった。
 水原さんからは彼女がウィーンに立つ前に一度メールが来た。ぼくはすぐ励ましの言葉を添えて返事を返した。それを最後にぼくは彼女のアドレスを消去した。
 しかし、そうすることで全ての気持ちをリセット出来たわけではない。あの日以来クラシックを耳にしたりすると少しまだ胸が痛んだ。そんなときはいつもユキと散歩に出かけた。外の景色をぼんやり見ながら並んで歩き、たまにユキを見て立ち止まってくれる人たちと何気ない会話をしたり、ときには広い道を全力疾走したりもした。そうすると次第に気持ちが安らいだ。
 ぼくはこの散歩を「癒し散歩」と呼んで毎日コースを少し変えながら歩いた。だけどあの川原には毎日出かけた。そこに行くと水原さんのことを思い出してたまらない気持ちになることもあったが、ここはユキと再会できた場所でもある。ぼくとユキには特別な場所だった。ユキもそのことが分かっているのかその場所へと続くY字路に差し掛かるといつも川原の方を目指して歩いていった。


 数ヶ月の月日が流れ、「癒し散歩」という言葉も忘れかけた頃ぼくはいつものようにユキと2人で散歩に出かけた。その日は休講が一つ出て早く学校が引けた上にバイトも休みだったので午後の早いうちからユキを散歩に連れて行くことが出来た。いつもよりゆっくり散歩コースを回り、一時間ほど歩いたあと最後にあの川原に行った。
 ここに来るとユキはとても嬉しそうにはしゃぎだす。
 だからぼくは人がいないとよくユキのリードをはずしてやった。そうするといつも10分ほど自由に走り回ってから満足そうな顔をしてぼくのところに戻ってきた。
 その日もユキを放してやると彼女は嬉しそうに草をかき分けて走って行った。
「あまり遠くに行くなよ。」
 そういうとぼくは草むらに横になった。暖かい午後の日差しがぼくを優しく照らした。昨日のバイトの疲れもあっていつの間にかぼくはウトウトと眠ってしまった。意識がなくなってどれだけ経ったかわからないが、
「あの…。」
誰かの声にぼくは目を覚ました。
「…ん?」
 目を開けるとぼくを覗き込むように一人の女の子が立っていた。一瞬知っている人かと思ったが全く知らない人だった。年はぼくと同い年かそれよりももっと若い。
 真っ白いワンピースを着て少し茶色がかったふわふわのショートカットをしていた。瞳は真っ黒で大きく、太くてくっきりした眉によく合っていた。小さくて丸い鼻の下にはピンクのきれいな唇。綺麗というよりもかわいい女の子だ。
 ぼくが寝ぼけ眼で彼女の顔を見ていると、
「ワンちゃん、逃げちゃったみたいですけど大丈夫ですか?」
 ぼくの手に残っているリードを指差して言った。ぼくは慌てて体を起こし、
「ああ、これは逃げたんじゃなくてぼくが放してやったんです。」
「え? そうだったんだ…。ごめんなさいね。起こしちゃいましたよね。」
 彼女は口に手を当てすまなさそうに言った。ぼくは笑って、
「大丈夫ですよ。気にしないでください。起こしてくれてよかったですよ。こんなところで寝たらまずいですから。」
 ぼくの柔和な態度に安心したのか彼女はにこっと微笑むとぼくの横に座った。
「犬。お好きなんですか?」
 彼女はぼくに尋ねた。
「ええ、好きです。一人暮らしを始めて飼い始めたんですけど…。」
「そうですか、私は飼ったことないからわからないけど…。ワンちゃん、ちゃんと戻ってくるんですか?」
 彼女は言った。
「ええ、戻ってきますよ。大体10分位したらいつも帰ってくるんです。」
「すごいなぁ。賢いんですね~。」
 感心して彼女は言った。ユキのことを褒められてぼくは何だか嬉しくなった。
「そうですか? ありがとうございます。本当はリード外すのはよくない事かもしれないけど、やっぱり犬ですからね。人が少ないときぐらいは思いっきり走らせてやりたいですから。」
「よく分かってるんですね、ワンちゃんの気持ち。」
「そうですね。でもどっちかというとユキのほうがぼくのこと分かってくれてますよ。あ、ユキって犬の名前です。ぼくが喜んでるときは一緒にはしゃいでくれるし、落ち込んでるときは慰めてくれるし…。本当にふしぎでね。そばにいてほしいときに必ずいてくれるっていうか…。そういう面では本当に感謝してますよ。」
「きっと心が通じ合ってるんでしょうね。」
「あはは。そうだと嬉しいですね。」
 人とこんな風にユキの話をするのは初めてだった。
 今までは通りすがりの人に「かわいいわね~」と声をかけられてちょっと話すくらいだったのでとても新鮮に感じた。
 ユキのことを褒められるのは家族を褒められているようで本当に嬉しかった。
 日はだいぶ傾き始め、湿った空気を含んだ風がぼくらの間を駆け抜けて行った。彼女は風で吹き飛んだ髪を右手で直しながら呟いた。
「いいですよね、分かり合える関係って。たとえ人間同士じゃなくても…。」
 声が少し重くなったような気がした。彼女を見ると何かを思い出すように遠くを見つめて押し黙っている。ぼくが何か余計な事でも言っただろうか?とりあえずその沈みかけた空気を変えようと、
「ま、動物もいいですけどね。だけど早くそんなパートナー見つけたいですよ。」
 と少しおどけて言った。彼女はそんなぼくの言葉に、
「私にはいます。」
 静かな笑みを浮かべて言った。
「そうなんですか? 羨ましいな。」
「でも…、もう少しでお別れなんです。」
 ぼくはドキリとした。
 けっこう重い話なんだろうか? だけど初対面でそんなこと話されても困る。ぼくは気まずそうに答えた。
「あ…、そうなんですか?」
 チラッと彼女を見るとじっと川を見つめている。ぼくも川に目をやった。夕日に反射した水面はきらきらオレンジ色に輝いていた。光の粒が辺り一面を駆け抜け、触れるもの全てを鮮やかなオレンジに色づけして行った。ここに来るたび何度も見た光景だが決して飽きることのない最高の景色だった。
 しばらくぼくと彼女はその光景を見ていた。不意に彼女が言った。
「…その人のことすごくすごく好きです。今でも好きです。」
 ぼくは黙って彼女を見た。彼女は続けた。
「その人といると幸せでした。その人の笑顔を見るのがとても幸せでした。その人、私のこと助けてくれたんです。一人ぼっちだった私を。」
「恋人ですか?」
 ぼくは尋ねた。
「恋人とかそういう次元を超えた人です。私生まれてまもなく母が亡くなってしまって。父はもともといませんでした。他にも家族はいましたけど皆私のこと好きじゃなかったみたいで、追い出されちゃったんですよ。
 私は生まれつき体が弱くて手のかかる子だったんで医療費もバカにならなくて、そういうのもあったんでしょうね。それから何回か別の家に引き取られたんですけどやっぱりうまくいかなくて、最後には一人になってました。
頼る人は誰もいないしこれからどうしようか迷ってるときに彼が助けてくれたんです。」
「そうですか。でもお別れって…あっ、すいません、余計なこと聞いちゃって。」
 慌てた様子のぼくを見て彼女はにっこり笑った。
「ううん。いいんです。今日はお礼が言いたくて来たんですから。」
「?」
 彼女の言った意味が分からずぼくはキョトンとした。彼女は立ち上がるとぼくを見下ろした。オレンジ色に染まった白いワンピースがまぶしくてぼくは思わず目を細めた。
「佑亮くん。今まで本当にありがとう。短い間だったけどすごく楽しかったよ。これからも元気で。」
 彼女がそう言い終わると突然風が吹いた。
 細く長い風が彼女をふんわり包みこみ、オレンジ色に染まった彼女を次第に薄めていった。渇ききっていない絵の具の上を手でそっとなでたように彼女の笑顔が風に滲んだ。
 薄れ行くその笑顔を見ながらぼくは思った。この顔見たことがある。この笑顔を見たことある。

 これはユキだ。

 彼女はだんだんとユキに姿を変えていった。ぼくは動くことも出来ずにただ呆然とその光景を見ていた。やがてふわふわの白い毛を風になびかせ、ユキはぼくの目の前に立っていた。しっぽを低く振りながら笑顔でぼくを見つめている。
「ユキ…?」
 ぼくはかすれる声で言った。ユキはぼくの声を聴くとよりいっそう嬉しそうにしっぽを振った。
 でもいつものように近寄ってはこなかった。
 ぼくを見つめたまま動こうとしない。ぼくも動くことが出来なかった。
 再び風が吹き彼女の姿をゆっくり包み、彼女の体を溶かしていった。それはまるでたくさんの光の粒がユキの細胞を少しずつ運んで川原全体に撒き散らしているようだった。
 ぼくはまぶしくて思わず目を細めた。
 その間にも光を乗せた風はユキを取り囲み少しずつ彼女の体を消していく。体というよりも存在そのものが消えて行く気がしてぼくは名前を呼んだ。
「ユキ!」
 ユキは薄れ行く体を懸命に動かして右足を前に出し「かいて」のポーズをとった。ぼくが手を伸ばすと彼女はかすかにしっぽを振った。しかし、ぼくの手が体に触れる前にユキは光と風の中に消えていった。
 ぼくはただ呆然とその場所を見つめた。
 穏やかな風が足元の草花を静かに揺らしている。何も変わらない川原だった。彼女のいた草の上に手をやるとかすかなぬくもりが残っていた。ぼくはゆっくりと何度も何度もその場所をなでた。その感触はユキの毛並みにそっくりだった。

 頬に何かが当たるのを感じてぼくは目を覚ました。目を開けるといきなりユキの真っ黒い鼻が飛び込んできた。
「…ユキ?」
 ぼくは川原に横になっていた。いつの間にか眠ってしまったようだ。じゃあ、あれは夢だったんだろうか?
 考え込むぼくを見てユキはふしぎそうにぼくの顔を覗き込んだ。そしてぼくの顔をペロペロなめると前足で「かいて」のポーズをした。いつもと何も変わらないユキがそこにいた。
「変な夢見たよ。」
 ぼくはしばらくユキのお腹をなでてやると、リードを付けていつもの道を帰っていった。
 夕日がきれいな帰り道。
 いつもと同じなのに今日はどこか特別な気がしてならなかった。ユキと歩く一歩一歩がとても貴重に思えた。
 ユキもまたそう思っているようだった。
 いつもはリードを引っ張って催促するのにぼくがゆっくり歩くと彼女はぼくのスピードに合わせて歩き決して走ろうとはしなかった。彼女は普段興味を示さない岩や木に近づいていきぼくを立ち止まらせた。まるで家に着くのを拒んでいるようだった。帰る途中彼女はぼくの存在を確かめるように何度も何度もぼくの顔を見た。そのたびぼくは彼女の体をなでてやった。そうすることで強くお互いを認識した。いつもより心の焦点が合った。
 このときぼくらは全く同じ気持ちを抱いていたんだ。もう少しこの時間に立ち止まっていたい。いつもより長くこの道を歩いていたい。そんな気持ちだ。


「それでどうなったの?」
冬子とうこは身を乗り出して興味深げに聞いた。
「次の日、ユキは動かなくなったんだ。前の夜に死んでた。」
「…そうなんだ。死因は何だったの?」
「詳しいことはわからないけど、もともと年取ってて体もそんなに丈夫じゃなかったみたいだから老衰だったのかもしれない。」
「そっかぁ…。でも夢にまで出てくるなんて、ユキちゃんよっぽどお礼が言いたかったんだね。」
「かもな。」
 ぼくは笑って言った。
「でもわかんないな。私たちの事とその話と何の関係があるの?」
 冬子はふしぎそうに聞いた。
「実は、夢の中に出てきた女の子。ユキが姿変えてた子ってお前なんだよ。」
 冬子は丸い目をいっそう丸くしてぼくの顔を見た。
「ウソ、ほんと…?」
「うん。」
「じゃあ、何? 私の顔知ってたんだ。」
「そう。」
「だからなの? 私に初めて会ったときいきなり声かけてきたの。」
「そう。電車の中でいきなりだったから軽いやつって思われるか心配だったんだけど。」
「びっくりしたよぉ~。でも何でかわかんないんだけどそんな軽い感じには思わなかったんだよね。」
「とにかく必死だったから。」
 ぼくは笑った。冬子も笑った。
「だから今日ここへ来たんだ。一緒になる前にきちんとユキにお礼が言いたかった。ここにくればなんだか一番あいつに近づける気がしてさ。」
「そっか…。」
 それからぼくたちは川原を見つめた。
 あの時と同じように夕日がぼくらをオレンジ色に染め、少し冷たい風が草花を静かに揺らした。
 ユキの毛並みも風が吹くとこんな風になびいていた。しばらくぼくらは黙ってその光景を見ていた。
 そのとき冬子が言った。
「実はね、私この場所来るの初めてじゃないんだ。一度来たことがあるの。そのとき白い犬に会ってね。一緒に遊んだの覚えてる。」
 ぼくは彼女の言葉に驚いた。
「本当に…?」
「うん。それがユキちゃんだったのかな?」
 冬子は微笑んで言った。
 ぼくはいつかいなくなったユキのことを思い出していた。水原さんと会う前に家を飛び出して行ったユキのことを。彼女にはあのときぼくが水原さんと一緒になることはないってわかってたんだろうか? そんなぼくを心配して冬子を探しに行ったのだろうか。
「ユキはぼくに出会いをくれたんだな。」
「そうだね。」
 ぼくは冬子の手を握った。沈む夕日を見ながら心の中で何度も何度も繰り返し呟いた。
「ありがとう、ユキ。」

終わり

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