自己肯定と他者への敬意①

先日のお稽古の統一道は、片手を出して統一。

左半身になって、左手を出す。

相手は私の左手首を持って、私の左肩に向かって押す。

私の体に滞りがなければ、相手が押した力は相手に返っていくため、私は押し込まれることはない。

と、言葉で書くとこうなのでけれども、情報量があまりにも少ない。

実際に行われていることを説明するのには、合氣道への相当の理解と、言語化能力と、聞き手の心境を想像する想像力あるいは共感力というかが必要になる。

今回私が感じたことは、合氣道の技が成立するのには、まず、自分を肯定していることが必要だということ。

自分を疑っていては、心に迷いが生じる。

「これでいいのか?」「ちゃんとできているのか?」「間違ってはいないか?」などなど、どうしても考えてしまう。

これが心の迷い。

これは途端に身体に現れる。

傍から見ると、完全にバレバレ。

本人は一生懸命やっているつもりでも、身体のバランスは悪く、顔は締まっておらず、目は虚ろ。

これが悪いということではない。

ただ、この状態だとパフォーマンスは落ちますよ、ということ。

こういう状態だと脳を含む身体的な効率が下がる。

ある事をやろうとして、達成できないか、達成できたとしても精神と肉体がとてつもなく疲弊する。

そうすると、少なくとも私に関しては人生が楽しくなくなっていく。

人生は楽しく感じた方が良いと私は思う。

精神と肉体がとてつもなく疲弊することが楽しいという方は、そちらを選べば良い。

で、なぜ心に迷いが生じるのかを考えてみると、誰かに評価してほしい、採点してほしい、誰かに認めてほしいという考えが自分の中にあるためではないかと思った。

「これでいいのか?」「ちゃんとできているのか?」「間違ってはいないか?」という基準は外からの評価を気にしている。

心に迷いが生じないようにするには、誰かに認めてもらうのではなく、自分が心地よい状態か否かを基準にするのが良いのではなかろうか。

今の自分の状態が楽か、溌剌としているか、身体のどこかに力が入っていないか、滞りなく氣が流れているか、伸び伸びしているか、などなど、まず、自分が気持ちよくいられることを優先する。

自分を大切にしていく。何かを達成したからとかの条件なしで、自分は存在するだけで価値があるということを理解する。

まず自分を肯定する。

その状態が基本。

人の役に立つ前に、そこがスタートのような気がしている。

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