自己肯定と他者への敬意②

自分を肯定できている状態で、左半身で左手首を出して立つ。
そこに他者がやってきて私の手首を掴む。
この時、自分は気持ち良い状態にあるだろうか。
一般的には触れられた時には違和感を覚え、触れられ方によっては不快を感じる場合もある。
この状況を、自分がストレスを感じずに、心地よく感じる状態に変化させていくのが次のステップになる。

自分が心地良くある状態を維持する一方で、同時に相手も心地良くないとぶつかりが起こり、お互いに不快を感じる状態が生まれる。
そこで、私の手首を掴んだ相手はどうしたいのか?を感じる。
つまり、相手の心を知る。
次が、相手の氣を尊ぶで、最後が率先窮行となっていく。

今回は、相手とのコンタクトが生じる際の自分の状態について考えてみる。
自分より経験の浅い相手に対しては、心に余裕がある場合が多い。
なので、「相手の心を知る」から先をやりやすい。
これが、自分と同等もしくはそれ以上の経験を持つ相手となると、それだけで構えてしまう。
こうなると、自分の心地良さはどこかへ飛んでしまう。
このあたりに目的を達成するためのヒントが隠されていそうだ。

思考の癖として、経験の浅い相手に対しては気楽でいられ、経験豊富な相手に対しては警戒してしまう、という構造になっているようだ。
このマインドの違いによってパフォーマンスが異なってくる。
では、誰に対しても気楽な状態でいれば良いということになるけれども、この表現には若干違和感がある。
何というか、誰に対しても公平に敬意を払うというのが狙うところのような気がする。
老若男女を問わず、敬意を持って接する。
もちろん、相手はこちらへの敬意を持ち合わせていない場合もある。
それでもこちらは敬意を持って接することができるかが問われる。
謙るということではない。
あくまでも対等な関係で敬意を払う。
年長者だろうが、上長だろうが、後輩だろうが、小学生だろうが、乳児だろうが対等に接する。
こちらが不快なものは不快を感じてよい。
そこから、どのように「快」の状態に変化させていくか。
「快」=「氣が出ている」とも言えると思う。
自分だけでなく、相手や周囲も含めてである。
お稽古ではそこが問われている。

自分を肯定し、他者へ敬意を払うということがどういうことなのか、今のところ、その解答を私はまだ得ていない。

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