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ショート 黒曜石のナイフ
フロアは、パーテーションで仕切られ総務部と経理、営業に分かれていた、20人程社員が居て、忙しいながら働き易い職場である。
6月の半ば、中途入社の社員が紹介された。安田美津子と言う名前で、今時珍しく化粧っ気がなく、小柄で大人しそうだったのだが、初日からやらかした。書類を持って立ち上がった社員と、後ろを通りかかった彼女がぶつかりそうになった。瞬間!【ギャーー】耳を劈く様な悲鳴をあげた。超大音量である。動きが止まった職場「あんた、どっか悪いんじゃないの?」と目を丸くする社員に、彼女は「ごめんなさい」と小声で繰り返すばかりだ。下のフロアから「どうしたー」と課長が駆け込んで来た。フロアを跨いでまで聞こえたんだ。と、改めて驚いた。
翌日の朝から会議室に集められた俺達は、安田さんについて、人事からちょっと凄い話を聞かされた。人事課長曰く、
安田さんご本人からの申し出があって、皆さんに聞いて欲しいことがあります。安田さんは、母親が、某宗教団体に染まって、妹と共に出家してしまい、ご両親は離婚。その時の心労から父親は患ってしまい、2年前に他界してしまった。すると妹から「お布施をしろ!そうしないと不幸になる」などの電話が来る様になり、警察に相談したが、動いてくれず、ある日大勢でアパートまで押しかけられ、ドアチェーンも切られてしまった。その時、思いっきり悲鳴を上げた。叫び捲っていると、誰かが通報したらしく、パトカーが来て事なきを得た。やっと警察も動き出してくれたが、それからも、路上で車に引き込まれそうになったり、様々な危機に直面し、その都度悲鳴をあげて逃げ延びた。数年は、悲鳴を唯一の防護手段として生きて来たそうです。最近、その宗教団体に司法が入り、逮捕・解散となった。新しい人生を求めて引越し、転職したそうです。
ここからは、彼女が自分で話した。「ごめんなさい、あの大層な悲鳴で、自分が壊れている事を、確信しました。今、心療内科に行くか、手術で声帯の一部を切るか考えています。それでも、仕事の邪魔になるなら、退職も、仕方ない事だと考えています。」
との事だった。シーンとした会議室に、1人の女子社員が声を上げた。「私は、あの悲鳴!大丈夫絶対大丈夫、なるべく安田さんを驚かさない様にします。今のままで良いと思います。」大きな拍手が起き、安田さんは泣いて頭を下げていた。
しかし、あれから悲鳴は無かった。安田さんは、凄く仕事が出来る人であった。PCに関することは、専門家以上に頼りになった。故障からアプリの不具合、特に「あの、チョット良いかな」の年配者にも、丁寧に教えてくれる。人気者となっていた。
会社の保養所使用許可が、俺たちの課に回って来たので、参加することにした。安田さんも参加する。総勢15名である。
天候に恵まれ、保養所周辺には、夕方の涼しい風に、バーベキューの、良い匂いが立ち込めてきた。簡易テーブルに皿を並べていた社員が、無言で俺達が居る方へ走って来た。背後を見ると、なんと、クマが居た。大きかった。クマはこちらへ向かって助走に入った。その時、安田さんが1人離れた方向へ走り出した。そして、【ギャ〜〜、みんな建物に入って鍵閉めてエー、ギャー】と超大音量で叫び出した。クマは1人離れて騒ぐ獲物に向きを変えた。すると彼女が何か黒いものをぶん投げた。クマは足元から鮮血を噴き出して転げた。怒りで彼女に向かおうとする。我に帰った俺は側のドラム缶をガンガン叩き大声を上げた。女子社員は全員悲鳴を上げ、男子社員は音の出るものを叩きまくった。クマはヨロヨロと逃走して行った。逃げた方向には鮮血の帯が出来ていた。建物に逃げ込む時、安田さんの所へ行くと、彼女はガクガク震えて動けなくなっていた。抱き抱えて移動し、警察に電話した。しっかり戸締りをして、ドキドキしながら警察からの連絡を待った。暗くなって、やっと来た連絡で、クマは峠の下で、死んでいたそうだ。念の為 屋外のキャンプは控えてほしいとの事なので、急遽メニューはカレーになった。
食事をしながら、女子社員が、「ねえ安田さん、あのピュッって投げたナイフ?凄くかっこよかったよ、血がドバーってなってたもんね」「ああ、あれね、母が護身様に買えって、50万で売りつけられたの、黒曜石のナイフらしいわ、もう会うことは無いけれど、なんとなく捨てられなくて、持っていたのよ」別の社員が「そんなに高価な物なら、拾って来ましょうか?あのままだと、管理人に爪付きの肉球と一緒に持って行かれちゃいますよ」と言うと彼女は、「いいえ、手放すには良い機会だと思うから」と言った。
数年経って、ある飲み会の席で、黒曜石のナイフが、勿体なかった。と言う社員に。母に助けられたと、思いたくなかった、と言った。でも、もしナイフが偽物で、役に立たなかったら、どうするつもりだったの?と聞くと、絶対母が助けてくれると思ったの、と答えるのだ。
季節が変わる頃、俺は思い切って安田さんにプロポーズした。
今は未だそんな気になれない。待ってほしいと言われた。
その時から、ずっと、待っています。
おしまい
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