ショート 相談相手
洋子は、買い物が入ったレジ袋を力任せにトートバックに押し込んだ。ちくわと魚肉ソーセージ、長ネギで、今日の買い物は終わり、パートへ行って、先輩のレッスンへ行って、劇団に顔を出して、保育園にエリを迎えに来た。はぁ〜、毎日、この繰り返し、本当に、絶えられなくなっていた。保育士の話を適当に聞き流し、エリの手を引いて帰宅する。
夕飯時、いつもの様に夫は言う、豪華にしろとは言わないが、これほど質素にする必要があるのかと、妻は夫に家計簿を差し出した。それを横に置いて、3人は無言で食事を進める。
エリちゃんはチャーハンを半分食べて、スプーンを置いてしまった。母親が「もう、ごちそうさまなの?」コクンと頷くと、「じゃあ歯磨きして、寝なさい、お布団敷いてあるからね、1人で出来るわね」エリちゃんは、立って洗面所に消えた。
エリちゃんは、何にでも顔を描く、いつでも黒のフェルトペンを持っている。1人でお布団に入り、持ち込んだ画用紙に、大きな2つの顔を描いた。頭から被ったお布団から覗くと、閉じられた引き戸の隙間が、縦に1本だけ明るくて、両親の会話は全部聞こえるのだった。エリちゃんの寝ているお部屋は、窓のある四条半で、二間続きのアパートは古くて、サッシじゃ無いから、カタカタ鳴るのだ。エリちゃんはそれが怖かった。でも大きな顔を2つも描いたから、もう大丈夫、顔は友達で、魔除けのお札で、相談相手だった。
夫は家計簿を少し見て、「俺さ、転職するよ、せっかく君に紹介してもらったけど、劇団を辞めるよ」妻は「何でよ!貴方は夢を諦めるの?」興奮して早口になり、少し声を張ってしまう、夫はシーと言うと、小声で話し始めた。
「諦めていないよ、夢が変わっただけ、今の俺の望みは、お前とエリが幸せでいることだよ、そのために、転職を決めてきたんだ。」
妻はテーブルを叩き、「劇団員なんて、誰でも成れる物じゃないのよ、貴方が諦めても、私は嫌!表現者としてこの先も突き進むわ! 同じ夢を追うために一緒になったのよ、忘れたの?」
「忘れる分けが無い、ただ俺には演劇の才能は無いよ、それが分かっちゃったんだ。それに、現実的に、今我が家は予算が無さすぎる。洋子だって辛いだろう?この転職で楽になれるよ」
「何を言っているの!母の仕送りが遅れているだけよ、ちょっとの我慢もできないの?」夫は頭を横に振る。
「なぁ、君の母親に援助を頼むのは、もうやめてくれないか、俺も居るんだし、俺の稼ぎでやって行こうよ、俺が稼ぐからさ」
「ダメよ!お互い進む道が別々なら、別れるしか無いじゃないの、母に相談もあるし、私、しばらく実家に帰るわ、貴方も1人になって初心を思い出してよ、」洋子は興奮して、震えが来ていた。
夫は説得を一旦諦めることにした「分かったよ、でも洋子が実家に帰る必要はないよ、職場がダムなんだ。帰って来られるのは月に1回程度だから、しばらく会えない、お互いに頭を冷やして考えよう、支度金が50万出るから、すぐに振り込むよ、毎月20万は25日に振り込んでもらうから、」洋子のスマホが鳴った。
劇団からの電話だ。いつも夜10時に打ち合わせの連絡が入るのだ。夫は風呂場に向かった。
翌朝8時に起きると、夫はもう出掛けていた。手紙がおいてある。
ごめん、話しきれない大切な事があって、夜明け前から手紙を書いています。急で申し訳ないが、今日ダムへ出発します。大型トラックでの移動なので、早朝出掛けます。支度金の50万はすぐ入れておくから、使ってください。次にエリの事だけど、色々考えたが、俺が話すより、保育士の鈴木さんの話を聞いて欲しい、何とかして時間作って、どうか鈴木さんの話を聞いて欲しい、お願いします。
と、書かれていた。
パート先に休みの連絡を入れ、エリを連れて保育園に向かい、保育士の鈴木さんと話をさせてもらった。
エリが外で遊び始めると、エリのお絵描き帳を持ってきた。見ると、どのページにも、顔・顔・顔・顔・顔ばかりが描いてある。エリちゃんに聞いたんですよ、これはだあれ?って、そしたら、これはママとパパ、これは助ける人、これは守る人、と言うの、見て下さい、ママの顔、口が横一本の線でしょ、でもほらパパは笑っている。洋子さん、この頃エリちゃんの世話をしている時、自分が無表情なの知ってた? エリちゃんも表情が無くなっていることに気付いていた? エリちゃんが、ママは女優だから大変なのって話してくれました。知っていますか? 無表情に育てられた赤ん坊は死んでしまうのよ、人の頑張りや、疲れを理解するのは、5歳のエリちゃんには無理です。キャパオーバーです。エリちゃんが壊れてしまいます。洋子さん、前はよく笑っていたじゃないですか、
園を出て、近場のATMへ行くと、夫から52万円送金されていた。少しぐらい、自分の手元に置いたら良いのに、遅れていた家賃と、先輩のレッスン料を振り込み、ついでに今日は、レッスンを休ませてもらうと電話した。アパートに戻り、1人で考えたかった。
狭い間取りが、妙にガランとして寒い、布団を畳むと、エリちゃんの描いた顔が2つペラリと落ちた。これを抱いて寝てたんだ。
本当に可哀想なことをしてた。
そうだ、今日はエリの大好きなハンバーグにしよう、いつもの癖で買い物メモを書く、書き始めて気が付く、2人分で良いんだと、あの人行っちゃったんだ。遠くなのかな、会えると分かっているのに、私どうしよう、買い物に出たいのに涙が止まらない、午後2時いつもなら、パートが終わる時間だ。アッ電話だ!
「もしもし、俺、」「あなた、鈴木さんに聞きました。私が悪かったわ、ごめんなさい」「そうか、今電話してるこの携帯、会社支給なんだよ、番号入れといてね、場所はメールしとくが、奥多摩だよ、来月10日に帰るからね、給料は自動振り込みにしといたから25だよ、ン?大丈夫か?」「うん、もう大丈夫、今初めて気づいた。わかる範囲に、貴方がいると安心してた。視界に貴方が居るともっと安心してた。私も、劇団辞めたほうが良いのかな」「何を言ってるんだよ、土木工学部にいた俺を、演劇に誘ったのはお前だよ、あの頃からずっと、俺はお前のファン1号だ。俺の押しは君だ!続けろよ、恥ずかしいから切るぞ」
部屋が暖かくなった気がした。園に電話して、早めに迎えに行って良いか聞いた。鈴木さんが、勿論いいですよ、と言ってくれた。
鈴木さんの声も温かい
おしまい
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