エル・カンターレに出会って


『光ある時を生きよ』   大川隆法著


第4章 「運命の開拓」講義

「世の失敗者たちの嘆きの多くは、
自らの夢を捨てた時に始まっているのだ。
しかし彼らの人生の敗残者の多くは、
自らが自らの夢を捨て去ったということに
気づいていないのである。
汝ら現実主義者となることなかれ。
汝ら結果主義者となることなかれ。
結果を恐れるなかれ。
むしろ夢を持続しえぬ自分を嘆け。
結果は求めてはならない。
結果は与えられるであろう。
与えられた時に黙って受け取ればよい。

夢を抱け。
夢を持続せよ。
その夢の実現には、しかしこだわるな。
その時期に限るな。 
その方法を限るな。
やがて与えられるであろう。
与えられるものを大いなる感謝の気持ちで持って受け取ってゆけ。
それが人生の秘密である。」

このあたりは、幸福論の極致に近い部分であろうと思います。
たしかに失敗者たちを見てみると、簡単に夢が砕けてしまっているようです。人生の敗者を任じている人は、いつの間にか自分が結果主義者に陥っているということに気づかねばならないのです。
結果がよければ信じるけれども、結果が悪ければ信じないというのは、まったく信仰の世界から離れた世界でもあるのです。
こうなりたいと思っていることが、いま実現されないとしても、それはあらゆる可能性がその扉を閉じたということにはならないのです。
『日蓮聖人霊示集』にも「運命というものは、ひとつのドアが閉まれば、別のドアが開く」ということが書かれています。
目の前のドアが閉まったということだけで自らの夢を断つならば、それは結果主義者であって、信仰の世界を知ったということにならないのです。
心のコントロールの世界、夢を描く能力、ここにもほんとうは段位の差があるのかもしれません。
現実にどれだけ大きな夢を描き、持続し、実現してゆくか。夢を描く能力においてプロとなったとき、ほんとうに道が拓けてゆくのではないかと思います。
ドアがひとつ閉まっても違うドアが開く、それが閉まっても次のドアが開く、そのように思えということです。これは実際そのとおりであって、道はいくつもあるのです。
『神理文明の流転』の「心の開拓」の章でも説明しましたが、運命のシナリオは何枚かあります。一枚目のシナリオというのは、環境のなかにそのまま流されてゆけばそうなるというシナリオですけれども、自分の意志というもので押し強く断行していった場合には、違ったシナリオが現われてくる。二枚目、三枚目、四枚目があるという話をしました。
それは別の言葉で言うならば、ひとつのドアが閉まったら、次のドアが開くということです。そのときに、会場のなかに入って座れる座席はもっといいところかもしれません。後ろのドアが閉まって入れないとき、前のドアが開けば、一等席に座れることもあるわけです。そのようなことがいくらでもあるので、自己限定してはならないということです。


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