エル・カンターレに出会って


『復活の法』   大川隆法著


第4章 因果応報

悪の種というものは常にあります。
また、どのような人であっても、一つの悪も犯さずに一生を送ることはできません。もちろん、悪を犯したことに自分では気づかない場合もあります。その部分にまで光を当てられたならば、悪を犯さずに生きることは無理なのです。
人間が一人、一生を生きるためには、多くの生き物の命が犠牲になっています。この犠牲なくして人が生きられるかというと、そうはいかないのです。「私はベジタリアンであって、肉を食べていない」と言う人がいるかもしれませんが、菜食だって同じです。
植物にも魂があります。植物だって、この世での使命を果たしたいのですが、やはり食べられてしまいます。その点では動物と同じです。
さらには、そういう動植物だけではなく、多くの人たちの汗や涙、その他の努力の力の下に、人間は生活できているのです。
罪なくして、生きることは、なかなか、できるものではなく、むしろ、罪多くして生きることになります。
そこで、多くの動植物が犠牲になってくれたとしても、それを贖えれだけの高度な価値を生む生き方、「あの人が生きていてよかった」と言われるだけの生き方をしなければいけないのです。
カルマというものには、ある意味で、お金と同じようなところがあります。お金は、借りたら返さなくてはいけませんし、貯金をすれば、自分で使える範囲が広くなります。
人間は誰しも、自由に生きているつもりでいるのですが、高貴な使命や倫理観を伴った自由、要するに、責任を伴う自由を行使した者は、霊的には、貯金を積みながら生きていることになります。
一方、同じ自由であっても、責任を伴わない自由堕落の自由、他の人を害したり堕落させたり、みずからも堕落したりするような自由を行使して生きたならば、それは、霊的には、借金を背負っていることと同じなのです。ところが、そういう借金を自分が背負っていることに気づかない人が大勢いるのです。
肉体は、両親から頂いたものです。魂は、仏から頂いたものです。肉体も心も頂いたものなのです。さらに、人間は数十年を生きるために、数多くの犠牲に支えられて生きているのです。
したがって、「自分の肉体も心も、もともと借りているものなのだ」と思わなくてはいけません。借りているものなのですから、それをお返ししていかなくてはならないのです。それが人生なので
す。
「自分の人生はプラス・マイナス・ゼロだ」と自分では思っているかもしれませんが、実際には、借金づけの生活をしていると見て間違いありません。「自分はとてもよいことをしてきた」と思えて、やっと、借金が消えるかどうか、ギリギリのラインであることが多いのです。
多くの人は、借金を持ったまま、あの世に還って
いき、その借金の重みでストーンと沈んでいきます。自由の解釈いかんによって、そのように未来が変わってくるのです。
「地獄に堕ちる」ということは、「この世での数十年から百年のあいだの人生に、霊的な意味において借金があった」ということです。要するに、「多くの恩を受けて生きていたわりには、お返しかできない人生であった。借金を持ち越した人生であった」ということです。それでは、「どうして借金をつくったのか」いうことですが、その借金の原因のほとんどは、魂ではなく肉体のほうを真なる自分だと思って生きた場合に生じます。(先生も肉体ではなく、先生の法が大切なのに、肉体に執着をして、復活の祈りをずっとしていては、間違っています。
生前の法に弟子の仕事は、伝道です。と教わり、
この法を広めることにより、霊的なエル・カンターレの愛の教えが広り、三千年の仕事をされたことになるのだと思われます。)
魂のほうを真なる自分だと思って生きている人には、借金は生まれにくいのです。
この簡単な価値観において、どちらの側に立つかが、非常に大きな問題なのです。この立場が違えば、完全に逆の発想になって、借金と貯金が入れ替わるのです。


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