エル・カンターレに出会って
『想念の管理について 心を見つめる』
心を見つめる
感情のコントロールをしたければ、「頭だけでパッと考えて言うなよ」ということです。もうちょっと胸まで下ろし、自分の心、ハートに訊いて、「こういう反応をしたら、相手はどういうふうに受けるかを考えてみろ」という部分もあるでしょう。
さらにもうちょっとそれを下まで下ろしてハートで反応していた喜怒哀楽の感情をもう一段下腹部の臍下丹田のところまで下ろして考えることです。そのようにしているうちに穏やかになってくる面はあるのです。
すぐにカットなる性格であるとか、感情が出やすくて、感情に翻弄される生き方をしているなと思うような人は、心の位置をだんだん下げていく訓練をするとよいかと思います。
「凡事徹底型」の訓練を延々とした人は、水汲みや薪割り、山の石段を上がったり下りたり、雑用をしたり、庭を掃いたり、廊下を拭いたり、毎日毎日、同じようなことを単調に繰り返しているように思われるものでも、そうしているうちに、少しずつ少しずつ心の重心が下がって行きます。そしてお経を読んだり、いろいろと勉強し、参究したりするようになると、何度も何度も繰り返し考えるような癖がつき、心が非常に安定し、重心が低くなってきて、単純なことではカッとしないようになっていくということです。
カッと怒って、何か言いそうになったら、心の中で、「一、二、三、四、五」と数を数えてみれば、十秒たつころには、そういう言葉を言う気がなくなっていることが多いので、そのように心のなかで数えてみるとよいと言うようなことです。
心を見つめるには、透明なガラス箱に心を入れる。その時に一番簡単にチェックしやすいことは、「心のなかにカッとした怒りのようなものがあるか」、「人に対する憎しみのようなものがあるか」、「人に対する不平不満のようなものがたくさんあるか」、「愚痴のようなものがあるか」といったことです。
そのような憎しみや恨み、つらみ、不平不満、愚痴、猜疑心、嫉妬心、それから、悪口になって出る前の、人に対するネガティブな感情、評価といったものが、心のガラス箱のなかに見受けられるかどうか、まずこれを見ていただきたいと思います。これは一般的には、地獄界に通じていくものであるわけです。
このあたりの反省を、心を見つめながら行っていると、物事は「自己保存の心」を中心に動いていることがよくわかってきます。
「死んでも、あの世があって、魂として生きなくてはいけない」というのが真実の人生であるのに、何十年かこの世で生きていたなかで、そのことにまったく気がつかなかった。その可能性があることさえ感じなかったというのであれば、この世的に頭が良くても、「愚かである」としかいいようがありません。
特に、人の意見をまったく聞かないタイプの人は、地獄のなかでも、「無限地獄」といわれるような所に行きます。
「他人のことは分かる。自分のことは分からない。自分がなぜそうなったかは分からない」いうところから、他人を見ているうちに、自分のこともだんだん分かってくるのです。
幸福の科学の『太陽の法』や映画を見に行って、「真理の縁」がつくと勉強が進んでいきますので、そういう人が身近にいると、迷っている人にとっては救いへの道が早くなってくるわけです。
経営者等は、立場上、多くの人を迷わせた場合に責任を問われる。
舵取りをする一握りの経営者になってくると、他人の見る目が厳しくなるのです。公的な仕事についての判断が正しいかどうかも見られるのですが、それ以外の私生活のほうも、一般の人よりも厳しく見られることのほうが多くなってきます。
これはだいたい、「私生活のほうがいいかげんな感じになってくると、公務に影響が出ないわけがない」と、みんな常識的に思っているということです。
一個の人間として、「生き方が正しかったかどうか」「正しい言葉を語ってきたか」「大ボラを吹いて、人を騙したりしていなかったか」「失敗だと分かっていて、突っ込んでいかなかったか」など、いろいろな仕事上の反省が入る方もいるでしょう。「心を見つめる」といっても、そうした、ちょっと難しいものもあるかもしれません。
心を天上界に向ける訓練、心を天上界の波動に向ける訓練をしなければいけません。
本来、透明なガラス箱のなかに入っているのは心であるべきであるのに、いろいろな悪想念というものを自分でたくさん製造して、曇りをつくってしまうのです。
本来、天井界は明るい世界であり、光に満ちている世界ですけれども、自分の心でつくった曇りは空の雲と同じで、太陽の光を遮って明るい光が届かなくなるように、自分でつくった心の曇りが、自分自身に光が射さなくなる状態をつくってしまうのです。
そのようになるので、他人のせいや環境のせい、家族のせい、会社のせいにすることは簡単ではあるけれども、結局、自分自身の心のなかでできているメタンガスのようなものが曇りがつくっているわけです。そのなかでも努力して道を拓いていくか、耐え忍ぶことができるかどうか、「自分を鍛える機会だ」と思って踏ん張れるか。そういうことを試されます。
「最小限の悟り」とは何かというと、自分の心にかかっている曇りの部分を晴らして、天上界の神の光、太陽の光が心の中に射し込むようにすることです。
また、たまたま曇りが、一瞬晴れる時があったとして、そこにインスピレーションを下ろしても、本人が素直にきかないことが多いので、まちがった傾向性の心を強い意志の力と訓練、鍛錬、持続、あるいは協力する仲間等で、なおさなくては、いけません。
今は、お年寄りが増えて、孤独死する人も多いのですが、孤独なお年寄りがゴミ屋敷に住んでいるというケースも多くて困っていると言われています。家の周りがゴミだらけ、家のなかもゴミだらけで、保健所の人が入っても、ちょっと太刀打ちできないぐらいのゴミになっていることもあるようで、それと同じようなものです。
自分についているもの、憑依霊や、自分自身が発散している産業廃棄物のようなゴミは捨てなければいけません。私の本を読んだり、幸福の科学の映画など観ていたりすると、時々胸が温かくなる経験をされる方が多いのではないかと思うのです。そういうときは、天上界の光が入ってきているときなのです。「自分が他人にしてあげなかったこと」のほうを反省して、「これからは、もう少し他人に尽くすことや、他人のために何かできないか」ということを考えるような自分に変えていかなければいけません。
私は本をたくさん出していますか、「真理の言葉」を繰り返し続けて読んでいるということは、非常に大事なことなのです。いろいろなかたちで勉強ができて、いろいろなかたちで光が入ってくることになるので、非常にありがたいことなのです。「絶えず、新しい真理が水道水のように流れている」ということは、ありがたいことであるのです。自分自身がどこかで錆を作っていないでしょうか。心に曇りをつくったら、曇り落としをしなければいけません。これを実感を持ってわかるようになれば、かなり進んだ心境になったと言えると思います。