エル・カンターレに出会って

『光ある時を生きよ』 大川隆法著
第3章 「人生に勝利する詩」講義
「人々よ 不愉快を追放せよ、不機嫌を追放せよ鏡に映った その無愛想な顔は 一体だれの顔なのだ 笑顔の顔こそ素晴らしい
こぼれるばかりの白い歯こそ 幸福駅の入場券
笑顔が笑顔を招くのだ。」
次の「不愉快、不機嫌を追放せよ」という部分は、さらに具体的な教えの展開です。
笑顔を忘れているということは、人間としての出発点を忘れているということなのだ。
笑顔を浮かべるということは、いちばん簡単な愛の実践行です。
まず出発点においては、小さなところから始まってゆくのだ。成功への道は小さなところから始まってゆくということを知りなさい。悩みを愛しているよりは、その笑顔を、その白い歯をこそ愛しなさい。それが道を開く鍵になるのだ。
「人々よ なぜ喜ばぬ
朝に命のありしこと 夕べに家のありしこと
吸う息があり 吐く息もある
樹木の緑のありてこそ 清き酸素に恵まれる
熱き血潮の巡りてこそ 身にあふれくるパワーあり」
次には、感謝について述べています。
この万象万物に感謝する気持ちを忘れてはいないか。
不幸を嘆く人、不幸を愛する人は、これを忘れています。
たとえば、朝起きて、命があったということに感謝しましたか。いろいろな不平不満はあるでしょうが、帰るべき家があることを感謝したことがありますか。現に今、息ができる、息が吐けるということ、これをありがたいことだと思ったことはありますか。
ここに、光明思想が単なる浮ついたものではなく、その根底において、仏教もキリスト教も下敷きとして押さえていることが明言されているのです。
「人々よ 背伸びをするな 嘘をつくな 見栄をはるな
そんなことをせずとも あなたは神の子
その身そのままで光っている
うわべをつくろうな 虚栄を拝せ
神の子はそのままで尊いのだ」
背伸びをし、嘘をつき、見栄をはる人は、自分がこの世界において、神からすべてを与えられているということを忘れているのです。ここにあるのは〝悪しき自力思想〟の修正です。悪しき自力思想が生まれる原因は、自分の力だけで、すべての道が開けるとか、その結果を得られるのだと間違うところにあります。
私たちの人生は、その出発点、前提、土台において、すべてが与えられています。その条件の下で、それをいかに組み合わせ、どのように花咲かせるかということだけが、私たちの仕事なのです。その元なるものは、すべて与えられているのです。
私たちが万象万物に生かされているという現実を忘れ、自分だけを光り輝かそうとしているのではないのか、という言葉を忘れてはなりません。
「その身そのままで光っている」ということは、現状において「足ることを知れ」と言っているだけでは決してないのです。そのような消極的なことを言っているのではありません。自分の内にある光、現に与えられている光は、ほんとうはどれほどの光であるのか、どれほどの燦然たる光であるのか、それを自覚したことがあるのかと問われているのです。
その身そのままが神の子であるからこそ、うわべを繕い、虚栄を外に出す必要がないのです。「神の子はそのままで尊いのだ」という思想を消して忘れてはなりません。