エル・カンターレに出会って


『復活の法』   大川隆法著


第4章 因果応報

三世の因果が現実に成り立つためには、肉体を離れた自分というものが、どこかになければなりません。過去世の自分は、いまの自分の肉体と同じではなく、来世の自分も、いまの肉体と同じものではないので、肉体を離れた自己認識というものが、どこかになければならないのです。
そして、自分のカルマ(業)、魂の傾向性には、肉体に宿ったために盲目となり、霊的な意味が分からないまま、あることを反復して行ったり思ったりして形成してきたものが多いと言えます。
ある人が、数十年の人生において、一定の傾向を持ち、繰り返し何かをなしているときには、その傾向自体は、すぐにはなくならないのです。
走っている電車が、急に止まろうと、ブレーキをかけても止まれないのと同じです。
ここで思い出されるのは、天台大師智顗が説いた
「十界互具」や「一念三千」という教えです。
十界互具とは、天上界の最も上の心境から地獄界の最下層の心境までを十通り、「その十通りの心境を、上は仏から、下は真っ逆様に地獄に堕ちた人まで、全員が具えている。誰もが、心のなかに、そういう機能自体を持っている。しかし、もともと持っている機能が、どういう表れ方をするかは、人によって違ってくる」という考え方です。
すなわち、「確かに、すごい怒りに包まれた人の心は地獄に通じる。しかし、菩薩や仏は、心のなかに、怒るという機能を持っていないかというと、そうではなく、やはり、そういう機能自体は持っている」と考えるのです。
人間であるかぎり、作用としては同じものを、基本的に、すべての人が持っているのです。
しかし、「心の世界から観た人間には三千もの種類がある」という一念三千の教えのとおり、「心のあり方を、どのように調整していくか。心の針を、主として、どの方向に向けていくか。これによって人間は違ってくるのだ」ということです。
ラジオという装置においては、電波を上手に受信できなければ、きれいな音楽は聞こえませんが、
心についても、「きれいな音楽を聞こえるか、雑音が入るか、それは心のあり方によるのだ。装置そのものが違うわけではないが、心のあり方によって、そのように違いが生じるのだ」というように考えるのが天台大師の思想なのです。
これは、ある意味で、ほんとうだと思います。
「仏は仏、菩薩は菩薩、阿羅漢は阿羅漢、地獄の鬼は鬼」という具合に、それ一つだけの心で固まっているかというと、そうではありません。いろいろな心の可能性を、すべて持っていながら、「どの部分が最も強く出ているか」ということによって、それぞれの悟りの段階が定義されていると見てよいのです。
天上界の大如来から地獄の奥底にいる人たちに至るまで、適用されるルールは同じです。この世に生まれた大如来が、この世の法則を全部ねじ曲げて、自由自在に生きられるかというと、そうではありません。地上に生まれた大如来であろうと、地獄に千年もいてから、天井界に上がり、そのあと地上に出てきた人であろうと、三次元のルール、この世のルールは、同じかたちで適用されるのです。
ただ、如来界や菩薩界から出てきている人は、人生の目的や使命に関して、霊的な人生観を持っていることが多いのです。たとえ、この世的に敗れるようなことがあっても、トータルで見て、今世の使命そのものを最終的に逃さないように生きようと努力します。
そういう人たちは、「この世的な成功ではなく、この世とあの世を貫く成功を得るような生き方をしよう」という強い意志を持っているのです。
転生の過程で多くの人を指導してきた人は、やはり、それだけ熟練しているので、悟りの機縁に触れて悟るのも早いし、人々への教訓を見いだす力も大きいのです。また、そういう人には、間違っている人、困っている人、苦しんでいる人たちに対して、「助けたい」という気持ちが自然に湧いてきます。そのような部分で、優れたところが数多くあるのです。
話を因果の理法に戻すと、「過去世については、今世では手が及ばないが、今世でのことは、少なくとも来世につながることは確実である。
今世を生きていく過程において、悪い種子を心のなかにまかないようにしよう。悪い種子をまけば、生きているあいだにも、それは育っていくが、死んだあとであっても、それがなくなることはないのだ。
来世では天界以外の所に行くことになる。さらに来来世という、その先の生まれ変わりでも、その宿題を持って生まれることになる。
宿題を残さないようにするには、まず、まく種に気をつけ、悪い種をまかないようにしよう。悪い種をまいてしまったら、それが育たないように努力しよう。それが育ってしまったときには、今世において刈り取れるものなら、それを刈り取ってしまおう」このように釈迦解いたのです。

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