エル・カンターレに出会って


『復活の法』   大川隆法著


第4章 因果応報

「因果応報」は、これは仏教において外してはならない基本的なテーマです。
簡単に言うと、「原因必ず結果あり」「原因がなければ結果はないが、原因行為をつくれば必ず結果が生じる」ということです。
この世だけを取ってみると、必ずしも「原因・結果の法則」のとおりになっていないこともあるため、仏教は、この考え方を三世の因果にまで広けげ、「前世・現世・来世」という三世にわたる「因果の理法」について説きます。
現世悪いことをして、お金をたくさん儲けた人、大勢の人をいじめて、苦しめたのに大金持ちのまま死ぬことがあります。それでは「悪いことをしたほうが得ではないか」と見えます。ただ、仏教では、「死んだ後には、来世というものがあって、生前の行為の報いは必ず来る」と考えるのです。
また、赤ちゃんとして生まれたときには、いろいろなものに大いに違いが出てくるのは、今世の原因だけでは考えられません。
こういう場合には、仏教では、「それを今世の原因だけで考えることは難しい。前世、過去世にも必ず原因がある。過去世の宿題を背負って、今回、生まれてきている。その部分も計算に入れなくてはいけない。生まれてからのことを今世だけで考えると、あまりにも不公平や不平等に思えて、天を恨み、神を恨み、仏を呪いたくなるようなことだってあるだろう。しかし、人生は今世限りではない。そう考えたときに初めて、前世からの宿題、持って生まれた宿題の大きさが、それぞれ、人によって違うことを知ることができる」と考えます。
仏教は、このようにして、因果の理法を組み立てていくのです。
キリスト教は、生まれ変わりについて、はっきりと解いていないので、眉をしかめることもあります。
「三世の因果と言われると、人は努力しなくなるではないか。『現在が悪いのは過去世に原因があるのだ』と考えたならば、いまさら努力してもしかたがない。『運命で決まっているのだ』というように運命論的に捉えると、努力のしようがないではないか」という見方もできます。
また、インドのカースト制は、「今世において、身分が高ければ、あるいは富貴な階級に生まれれば。それで幸福だ」と考えるのならば、確かに、「不平等で、おかしい」と言えるかもしれません。
しかし、仏教の因果の理法からいくと、「社会的地位が高い。あるいは裕福である」ということは、必ずしも来世の幸福にはつながらないのです。地位が高いからこそ、大勢の人を苦しめることもあれば、裕福であるからこそ、間違いを犯すこともあります。「生まれによって幸・不幸は決まっている。生まれによって貴賤は決まっている」と捉えてよいかというと、そうではなく、来世まで見なければ、まだ何ともいえないところがあるのです。
キリスト教国で、近年、流行っていることは、前世についての探究です。
催眠療法の一種に、「退行催眠という催眠術をかけて、相手を小さい年齢のころに戻していく」というものがあります。
その退行催眠で、どんどん昔に戻していくと、この世に生まれてくる前のことを言い出します。
現代では、欧米でも、「退行催眠によって前世を探り出す」ということをしています。そうやって前世まだ戻ってみると、その人がいま抱えている問題について、「なぜこんな問題が抱えているのか」ということが非常によく分かる場合があるのです。
三世の因果という簡単な真理であっても、現代においては、それを覆い隠す考え方のほうが主流であるため、現代人は、魂の領域については分からなくなっています。したがって、現代の人々は、賢くなったようでもあり、愚かになったようでもあり、何とも言えない状況が続いているのです。
ただ、結論は一つです。やはり三世の因果というものはあります。
小さくは、今世のみで、「善いことをすると善い結果が来て、悪いことをすると悪い結果が来る」という、原因・結果の法則が働きますが、それだけで説明尽くせない場合には、過去世の問題が出てきますし、今世で報いが完結していないものは、その報いが来世で必ず完結します。
これは仏教の基本的な思想であり、私がこれまで調べてきたかぎりでは、まず間違いがなく、現実にもそうなっているということができるのです。

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