エル・カンターレに出会って
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『光ある時を生きよ』 大川隆法著
第1章 光ある時を生きよ
第一段階として、マイナスの心(愚痴や悲観的な他の人びとを傷つけ、困らすような発想)思いを止めました。しかし、それだけで満足してはなりません。この逆境を逆手にとって、積極的なプラスを生み出してゆかねばなりません。
みなさんは、自分個人の悩みで悩んでいたとしても、他の人びとを幸福にすることはできるのです。これは「観の転回」です。自分の悩みに囚われすぎないで、他の人の悩みに目を向けたときに、自分に可能なこと、可能な言葉、行動がそこにあるということを知るのです。
自利あるいは利自という、この利するという言葉は「目覚める」という意味なのです。自分が目覚めることを「利自」と言っているのです。「真なる覚醒」です。真の幸福、真の神理を知ること。また、人間としての自覚が深まること。これを利自と言っているわけです。
ゆえに、自ら悩みと格闘しているみなさんであればあるほど、その目覚めは深くなっていくので、人間としての目覚めがは深くなっていくのです。人間としての目覚めが、問題意識が、そして悟りが洞察が深くなってゆくのです。だからこそ、他の人びと」の悩みがよくわかるようになってくるのです。
自分を深く見たことのある人間こそが、他の人を深く見ることができるのです。苦しみや悲しみを透過した人特有のものとして、他の人への優しさがあるのです。他の人々の苦しみが深くわかるということなのです。
自分を深く洞察すればするほど、他の人びとの悲しみがわかる。その「わかる」ということは、愛という言葉にきわめて近いところにあるということを知らねばなりません。
不幸のどん底にあろうと、あるいは幸福の頂点、絶頂にあろうと、いずれにおいても、他の人びとに対して幸福の扉を開く鍵を持っているということなのです。
人を指導し、導くということは、限りなく奥の深いことなのです。勉強がすべて終わってはじめてできるようなものではありません。多くの人びとを導かんとしているそのなかにこそ、神理の知識というものがほんとうに必要とされてくるのです。学び方が本物になってくるのです。心から出る真実の言葉を伴ってくるのです。
ゆえに、「知行合一」ということが大切である、ということを語っておきたいのです。
その実践のなかに、さらに深い知識と洞察が必要とされてくるのです。こうして、学びはさらに深くなり、深くなった学びは、さらにそのエネルギーのはけ口を求めるようになってゆきます。ここに「学習即伝道、伝道即学習」という考えが出てくるわけなのです。
知れば知るほど行動したくなる。行動すればするほど、学びの必要を感じる。これは当然のことです。
神理伝道を実践している人は、逃げ場がないのです。実践しない人たちには、学習しているという逃げ場があるかもしれない。だからこそ、余計に厳しく、また魂の修行になるのです。
人間は、真に悟ることによって、変わることができるのです。
悟りの前提は、「人間とは、思いによって創られている存在である」と言う考えなのです。思いからすべてが始まります。「思いから行動が生まれ、思いから環境が生まれ、世界が生まれてくる」という考えなのです。ゆえに、悟りということが非常に大事になってくるのです。
あなた方がどのような人間であるかは、いま考えていること、そして考えつづけている心の傾向性そのものなのです。
この根本原則を知った人は、時間を無駄にすることがほんとうに難しくなります。「思い即自分」であるならば、その思いを正しく素晴らしいものに導いてゆく以外に、方法がないではありませんか。そして、素晴らしい人間というものが光り輝いている人間であるなら、その人の思いもまた光り輝いているはずなのです。
光り輝く思いとは、一体何でしょうか。
それは善念に満ち、他の人びとを幸福にせんという強い情熱に満ちた心ではないでしょうか。それを愛と慈悲の塊と言うのではないでしょうか。そのような人を如来と言うのではないでしょうか。そして、それがみなさんの人生の目的でも、目標でもあるのではないでしょうか。
今こそ、己の心を見つめ、そのなかにある黒く暗い流れを断ち切り、光に満たすことこそ、大切なのではないでしょうか。そして、その光を心のうちに集め、満たし、溢ればかりにしたときに、私たちは、自ずから己の使命を悟ることになるのです。
この地上に生きているところの幾億、幾十億の人びとに、
あなた方は本来、光の存在であるということを
知らせることではないのか。
今、この世は、夜の世界に支配されているが、
この私自らが灯したところの一本のロウソクを見よ。
これが光という存在なのだ。
いや、私だけではない。仲間を見よ。
仲間たちもロウソクを掲げているではないか。
この光が集まれば、どれほど明るくなるかがわかるだろう。
そして、我らが使命は、
この地上を、このロウソクの光で満たそうとするものなのだ。
それは、本来の神の光である太陽がつくる昼間には、
とうてい及ぶべくもないかもしれないが、
しかし、人びとを闇から解き放つことは可能であるはずなのだ。
私たちが行っている伝道とは、このようなものなのだ。
人びとは、もう久しく心の世界において、
昼間の太陽を見たことがない。
夜の世界のなかに閉じ込められてしまっている。
今こそ、光が必要なのだ。
私自身も、一本のロウソクの炎にしかすぎません。しかし、この一本のロウソクの炎から、一億二千の人が火を採れば、一億二千本のロウソクが灯るのです。そして、その過程は無限に広げてゆけるものです。
どうか光ある世界建設のために、道を同じくしてゆこうではありませんか。